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第206話 お母さん

そろそろ、


部屋へ戻ろうとしていた時だった。


看護師さんのスマホが鳴った。


画面を見るなり、


看護師さんの表情が変わった。


「娘の担当の先生だ」


そう言って、


電話に出る。


「もしもし」


少しして、


看護師さんの声が緊張した。


「はい。


今、大丈夫です」


私と彼女は、


顔を見合わせた。


電話の向こうの声までは、


はっきり聞こえなかった。


ただ、


看護師さんが、


何度もうなずいている。


「はい……。


お願いします」


その直後だった。


スマホから、


かすかな声が漏れてきた。


「……おかあさん……」


看護師さんの顔が、


一瞬でこわばった。


「うん」


声が震えている。


「この間は、


ごめんね。


突然、


病室に行ったりして……」


看護師さんは、


言葉を選びながら続けた。


「会いたくないって言ってたのに……。


ごめんね」


返事はなかった。


ただ、


電話の向こうから、


かすかな泣き声だけが聞こえてきた。


看護師さんは、


何も言わず待っていた。


私たちも、


黙っていた。


やがて、


電話の向こうの声が変わった。


先生に代わったようだった。


「……はい」


看護師さんが、


小さく返事をする。


しばらく話を聞いたあと、


「分かりました。


ありがとうございます」


と言って、


電話を切った。


彼女が、


すぐに尋ねた。


「娘さんからですよね?」


「うん」


看護師さんは、


スマホを見つめたまま答えた。


「娘の方から、


私と話したいって言ったんだって」


「そうなんですか」


「でも……」


看護師さんは、


ゆっくり息を吐いた。


「『おかあさん』って言ってくれたあと、


何も言えなくなっちゃって……」


声がかすれた。


「ずっと泣いてた」


彼女は、


しばらく何も言わなかった。


それから、


静かに言った。


「娘さんの方から、


話したいって言われたんですね」


「うん」


「だったら……」


彼女は、


看護師さんの顔を見た。


「今すぐ会いに行くって決めなくても、


先生に、


会っても大丈夫そうか、


聞いてみてもいいんじゃないですか?」


私は、


うなずいた。


「私も、


そう思います」


看護師さんは、


目を閉じた。


そのまま、


しばらく動かなかった。


私たちも、


何も言わなかった。


やがて、


看護師さんが目を開けた。


「先生に、


もう一度電話してみる」


そう言って、


スマホを手に取った。


「もしもし。


先ほどは、


ありがとうございました」


看護師さんは、


ゆっくり話した。


「娘が、


私と話したいと言っているなら……」


そこで、


声が少し詰まった。


「会いに行っても、


大丈夫でしょうか?」


しばらく、


先生の話を聞いている。


「はい」


「分かりました」


「では、


明日の午後三時に」


電話を切る前に、


看護師さんは、


もう一度言った。


「よろしくお願いします」


通話が終わった。


彼女が、


看護師さんを見る。


「明日、


会えるんですね」


「うん」


「三時に」


看護師さんは、


まだ少し信じられないような顔をしていた。


彼女が、


ももを抱いたまま言った。


「私も行きたいけど……」


そこで、


言葉を止めた。


「やっぱり、


明日は行かない方がいい気がします」


看護師さんが、


彼女を見る。


「娘さんが、


お母さんと話したいって言ったんだから」


彼女は、


ももの背中を撫でながら続けた。


「最初は、


お母さんと先生だけの方が、


安心できるかもしれません」


彼女が、


私を見た。


「どう思う?」


「うん」


私は答えた。


「私も、


明日は看護師さん一人の方がいいと思う」


看護師さんは、


小さくうなずいた。


そして、


しばらく海を見ていた。


「何を……


話したいんだろうね」


その声には、


嬉しさも、


不安も、


どちらも混じっているように聞こえた。


彼女が、


看護師さんの肩に、


そっと手を置いた。


「明日のことは、


明日が心配します」


看護師さんが、


彼女を見る。


そして、


静かにうなずいた。


「そうだったね」


少しだけ、


息を吐いた。


「信仰を、


やってみるよ」


彼女が、


首を傾げた。


看護師さんは、


言い直すように続けた。


「考えるだけじゃなくて、


本当に委ねてみる」


そして、


自分に言い聞かせるように、


ゆっくり口にした。


「明日のことは、


明日が心配します」


私は、


看護師さんの横顔を見ていた。


不思議と、


嫌な予感はしなかった。


もちろん、


明日、


何を聞くことになるのかは分からない。


それでも、


何か新しい扉の前まで来たような気がしていた。


海岸には、


やわらかな風が吹いていた。


夕暮れは、


ゆっくりと、


夜へ変わり始めていた。

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