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第202話 全部背負わなくていい

しばらく、


三人とも黙って夕陽を見ていた。


私は、


看護師さんの娘さんや、


夫のことから少し離れて、


自分のことを考えていた。


適応障害になって、


苦しかった頃のこと。


『明日のことは、


明日が心配します』


あの頃の私は、


この言葉とは、


まるで反対の生き方をしていたように思う。


会社で向けられた、


迷惑そうな視線。


その表情が、


頭の中に焼きついたように、


何度も何度も浮かんできた。


焦れば焦るほど、


頭の中は混乱した。


私は何もできない。


私は役に立たない。


周りに迷惑をかけている。


そんな思いばかりが、


どんどん大きくなっていった。


まるで、


自転車のチェーンが外れているのに、


それでも必死にペダルを漕ぎ続けているようだった。


どれだけ漕いでも、


前へ進まない。


それなのに、


もっと頑張らなきゃ、


もっと漕がなきゃ、


そう思っていた。


そんな毎日が、


ずっと続いていた。


心が悲鳴を上げても、


おかしくなかったと思う。


嫌な言葉が、


何度も頭の中で繰り返された。


目にした文字まで、


あとから追いかけてくるようだった。


あの頃の私は、


神様に委ねるという生き方があることなんて、


知らなかった。


この海岸で、


スマホとタブレットを壊した。


今振り返れば、


あれは、


もう自分ではどうにもできないところまで、


追い詰められていたことの表れだったのだと思う。


そして、


会社を辞めたことは、


私にとって必要な判断だった。


今なら、


そう思える。


でも、


その真ん中にいた時は、


本当に苦しかった。


仕事を辞めたあとの生活。


支払いのこと。


これから、


どうやって生きていけばいいのか。


何度考えても、


答えは出なかった。


それでも今、


私は神様を信じている。


神様に委ねる、


という生き方を知った。


こんな生き方があるなんて、


以前の私は知らなかった。


『明日のことは、


明日が心配します』


今の私には、


この言葉のあとに、


「そうは言っても……」


という言葉が続かなかった。


すべてが、


うまくいくとは思っていない。


苦しいことがなくなるとも、


思っていない。


ただ、


うまくいくか、


いかないか。


そのことだけに、


自分の心を振り回されなくてもいい。


私は、


そんな生き方があることを知った。


すぐ隣には、


彼女がいる。


そして、


看護師さんがいる。


二人にも、


それぞれ、


私には想像しきれない痛みがある。


それでも、


二人も今、


それぞれのかたちで、


神様を信じて歩いている。


私は、


この二人から、


たくさんの励ましと、


慰めをもらってきた。


二人と出会えたことそのものが、


神様はちゃんと、


私の歩みを見ていてくださったのかもしれないと、


思わせてくれる。


夕陽が、


二人の顔をやわらかく照らしていた。


それを見ていると、


また、


涙が出そうになった。


しばらく黙っていた看護師さんが、


口を開いた。


「ねえ」


私と彼女が、


看護師さんを見る。


「今、


私が考えてること、


ちょっと聞いてくれる?」


「もちろんです」


彼女が、


すぐに答えた。


看護師さんは、


私の方も見た。


「二人の意見を、


聞かせてほしいの」


彼女が言った。


「思ったこと、


そのまま言いますよ」


そして、


私を見る。


「ね?」


「うん」


私も、


うなずいた。


何を話すんだろう。


看護師さんの表情は、


真剣だった。


でも、


昨日までの張り詰めた感じとは、


少し違って見えた。


「娘のことなんだけど……」


看護師さんは、


海を見ながら話し始めた。


「私は親だから、


できることは何でもしてあげたい」


「うん」


「それは、


今も変わらない」


看護師さんは、


波打ち際へ目を向けた。


「でもね……」


言葉を探すように、


しばらく海を見ていた。


「娘の人生は、


娘のものなんだって、


ちゃんと考えないといけない気がしてきたの」


彼女が、


黙って聞いている。


「もちろん、


今は記憶のこともあるし、


心も体も、


かなり疲れてる」


看護師さんは、


ゆっくり続けた。


「だから、


支えなきゃいけないところは、


ちゃんと支えたい」


「うん」


「でも、


だからって、


娘が何を考えるか、


何を望むかまで、


私が全部代わりに決めていいわけじゃないよね」


私は、


看護師さんを見た。


「娘と私は、


親子だけど、


別の人間なんだよね」


看護師さんは、


自分の言葉を確かめるように、


海へ目を戻した。


「娘を、


何も決められない小さな子どもみたいに、


扱いたくないの」


看護師さんの声は、


静かだった。


「娘が今、


何を望んでいるのか。


何を嫌がっているのか。


できるだけ、


その気持ちを大切にしたい」


波の音だけが、


しばらく三人の間を流れていた。


「助けたいよ」


看護師さんが言った。


「娘は、


かわいい。


できるなら、


私が全部守ってあげたい」


看護師さんは、


両手を膝の上で重ねた。


「でも、


全部を私が背負うことと、


娘を愛することは、


同じじゃないのかもしれない」


その言葉に、


私は少し驚いた。


看護師さんは、


老人のノートを見た。


「『明日のことは、


明日が心配します』」


そして、


私たちを見た。


「この言葉を考えてたらね……」


胸に手を当てた。


「娘をどう助けるか、


そのことまで、


私一人で全部決めようとしなくていいのかなって」


「できることをする。


娘の気持ちも聞く。


先生たちとも相談する」


そして、


静かに言った。


「あとは、


神様に委ねる」


看護師さんは、


私と彼女を交互に見た。


「そういう構えで、


娘と向き合っていきたいんだけど……」


首をわずかに傾けた。


「どう思う?」

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