第200話 奇跡のおとずれ
彼女が、
ももとカールのお皿にミルクを注いだ。
そして、
それぞれ別のお皿に、
ドライフードを用意する。
看護師さんは、
まだ老人のノートから目を離さない。
彼女は、
そんな看護師さんの様子を見て、
代わりに二匹へ言った。
「はい。
どうぞ、召し上がれ」
ももとカールが、
それぞれのお皿に顔を近づける。
私は、
看護師さんに声をかけた。
「私たちも、
いただきましょう」
返事はない。
看護師さんは、
まだノートを見ている。
彼女が、
私に小さな声で言った。
「いいよ。
先に食べよう」
私たちは、
黙ってお弁当の蓋を開けた。
食べ始めてしばらくすると、
看護師さんが、
ノートから目を離さないまま聞いた。
「ねえ。
この言葉、
聖書のどこにあるの?」
私は答えた。
「マタイの福音書、
六章三十四節です」
「マタイ?」
看護師さんが、
ようやく顔を上げた。
「マタイって、
どういう意味?
私、
何にも知らなくて……」
「マタイっていうのは、
人の名前です」
「人の名前?」
「はい。
一般には、
この福音書を書いた人だと伝えられています」
看護師さんは、
ノートへ目を戻した。
「そうなんだ……。
マタイっていう人が……」
そして、
もう一度、
自分で書いた言葉を眺めた。
「なんか……
すごい言葉だね」
彼女が、
看護師さんを見る。
「すごい?」
「うん」
看護師さんは、
指で文字をなぞるようにしながら言った。
「『明日のことは明日が心配します』……」
しばらく、
何も言わなかった。
「この言葉、
すごいよ」
看護師さんの声が、
少しずつ変わっていく。
「心の底まで沁みてきた……
いや……」
首を傾けた。
「沁みたっていうのとも、
ちょっと違うな……」
また、
ノートを見る。
「なんて言ったらいいんだろう……」
私も彼女も、
黙って待った。
「うまく言えないんだけど、
なんか……
自分で抱えてたものを、
下ろしていいって言われたような気がする」
私は、
看護師さんの顔を見た。
「言葉って、
本当に力があるんだね」
看護師さんは、
静かに言った。
「今、
それを感じてる」
その時、
私はふと思った。
誰かを励ましたくて、
一生懸命言葉を探しても、
届かないことがある。
私も、
何度も経験してきた。
でも今、
私はただ、
自分が好きだった聖書の言葉を、
看護師さんに渡しただけだった。
それなのに、
看護師さんの中で、
何かが動いている。
張り詰めていたものが、
少しずつほどけていくように見えた。
私には、
そう見えた。
*
彼女が、
看護師さんの前にお弁当を差し出した。
「あっ」
看護師さんが、
ようやくお弁当に気づいた。
「私がお弁当忘れるなんて……」
缶ビールにも手を伸ばした。
「これ、
ぬるくなっちゃったかな」
プシュッ。
缶を開ける音が、
砂浜に響いた。
一口飲む。
「おいしい!」
また一口。
「ちょっとぬるいけど、
おいしい!」
私と彼女は、
顔を見合わせた。
さっきまでとは、
声の響きが違っていた。
看護師さんは、
またノートを見た。
「『明日のことは明日が心配します』……か」
言葉を、
ゆっくり口の中で転がすように読む。
「すごい言葉だ……。
本当に……」
私は、
そんな看護師さんを見ていた。
もともとは、
私の好きな御言葉だった。
でも今は、
看護師さんの方が、
その言葉を必要としているのかもしれない。
私は初めて、
聖書の言葉が、
人の心に届いていく瞬間を、
目の前で見ているような気がした。
ひょっとしたら、
私がこの海岸で、
「休ませてあげます」
という声を聞いたことは、
やっぱり奇跡だったのかもしれない。
あの老人も、
同じ言葉を聞いていた。
そして、
その言葉は、
聖書の中に本当に書かれていた。
私は、
聖書にある言葉と同じ言葉を、
この耳ではっきり聞いたのだ。
あの時は、
そんなこと何も知らなかったのに。
そう考えると、
胸の奥が、
静かに震えた。
夕陽を見ながら、
私はしばらく、
ぼんやりしていた。
すると、
彼女が私を見た。
「ねえ」
「なに?」
彼女は、
私の顔をじっと見て言った。
「きれいな顔してるよ」
「えっ?」
思わず、
彼女を見返した。
生まれて初めて、
そんなことを言われた。




