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第199話 明日のことは明日が心配します

私は、


思い切って看護師さんに話しかけた。


「あの……」


「ん?」


「私、


好きな言葉があるんです」


「好きな言葉?」


「はい。


聖書の言葉です」


看護師さんが、


私の方を向いた。


「じゃあ、


教えて。


聞いてみたい」


「はい」


私は、


ゆっくり思い出しながら口にした。


「こんな言葉です」


『ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。

明日のことは明日が心配します。

苦労はその日その日に十分あります』


看護師さんは、


何も言わず聞いている。


「私、


最初にこれを読んだ時、


明日のことは、


明日になってから心配すればいい、


っていう意味だと思ってたんです」


「うん」


「でも、


今はちょっと違うふうに受け取ってるんです」


私は、


海を見た。


「もし、


明日のことは明日になって心配して、


明後日のことは明後日になって心配する、


っていうことだったら……」


言葉を探しながら、


続けた。


「結局、


毎日ずっと、


何かを心配することになっちゃうなって」


看護師さんが、


静かにうなずいた。


「だから私は、


『明日のことは明日が心配します』って、


明日のことまで、


今日の私が全部抱え込まなくてもいい。


明日のことも神様の御手の中にある、


っていうことなんじゃないかなって思ってるんです」


看護師さんは、


黙って私を見ていた。


海から吹いてきた風が、


私たちの髪を揺らした。


「それに、


そのあとには、


『苦労はその日その日に十分あります』


って書いてあるんです」


「うん」


「私、


ここが好きなんです」


看護師さんが、


少し首を傾けた。


「『心配はその日その日に十分あります』


とは書いてないんですよね」


私は、


自分の中にある言葉を、


一つずつ確かめながら話した。


「苦労することはある。


辛いこともある。


でも、


その上に心配まで背負わなくていいって、


私にはそう聞こえるんです」


「……うん」


「だって、


明日のことも、


神様は知っておられるから」


私は、


一度言葉を止めた。


「だから私は、


明日のことを今日抱え込まない、


というより……」


少し考えた。


「心配そのものを、


神様に渡していいんじゃないかなって、


思ってるんです」


看護師さんは、


しばらく何も言わなかった。


「偉そうなこと言って、


すみません」


「ううん」


「でも、


私、


本当にそう思ってるんです」


私は、


膝の上で手を組んだ。


「心配が出てきたら、


そこに信仰を置いてみる。


そんなふうに、


少しずつ入れ替えていけたらいいなって」


自分で言いながら、


また考えた。


「もちろん、


うまくできないことも、


いっぱいあります」


看護師さんは、


黙って聞いてくれている。


「私の場合、


信じよう、


信じようって力むと、


かえって苦しくなるんです」


「そうなの?」


「はい。


だから、


短くてもいいから、


祈るようにしてます」


波の音が、


静かに聞こえていた。


「声に出さなくても。


『神様、助けてください』


それだけでも」


私は、


看護師さんを見た。


「不思議なんですけど、


祈ったあと、


心が少し軽くなることがあるんです」


「心が軽くなる……」


看護師さんが、


その言葉を確かめるように繰り返した。


「うん……」


それから、


バッグを開いた。


いつも持ち歩いている、


老人のノートを取り出す。


一番後ろのページを開き、


余白にペンを置いた。


そして、


ゆっくり書き始めた。


『ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。

明日のことは明日が心配します。

苦労はその日その日に十分あります』


きれいな文字だった。


あの老人に負けないくらい、


達筆だった。


私に聞き返すこともなく、


一文字ずつ、


味わうように書いていく。


私は、


ちょっと驚いた。


書き終えると、


看護師さんは、


しばらくその言葉を見つめていた。


「ありがとう……」


顔を上げる。


「今の私に、


一番必要な言葉かもしれない」


もう一度、


ノートへ目を落とした。


「教えてくれて、


嬉しいよ」


「はい」


「心配と信仰を、


入れ替える……」


その言葉を、


自分に言い聞かせるように口にした。


「やってみる」


そして、


静かに息を吐いた。


「今の私にできるのは、


そういうことなのかもしれないね」


隣で聞いていた彼女も言った。


「私も、


やってみます」


私たちは、


彼女を見る。


「心配と信仰を入れ替えるっていうの」


その言葉を聞いて、


胸の奥が、


少し温かくなった。


私の中にも、


誰かに渡せるものが、


あったんだ。


ほんの少しだけ、


そんなふうに思えた。


その時、


彼女が突然、


波打ち際に向かって声を上げた。


「カールー!


おいでー!


ご飯だよー!」


遠くにいたカールが、


こちらを向いた。


そして、


夕陽を背中に受けながら、


砂浜を全速力で走ってくる。


彼女の腕の中では、


ももの白い毛が、


オレンジ色に染まっていた。


看護師さんは、


まだノートを見ている。


そして、


波の音に混じるほどの小さな声で、


もう一度読んだ。


「明日のことは……


明日が心配します……」

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