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第194話 一人で抱えなくていい

504号室のチャイムを押したのは、


看護師さんではなく、


彼女だった。


押したあとで、


看護師さんの方を振り返る。


「あっ、


すみません……」


そう言って、


彼女は一歩下がった。


「ううん。


いいのよ」


看護師さんは、


どこか嬉しそうだった。


しばらくすると、


ドアが開いた。


下の階に住んでいる娘さんだった。


「こんにちは。


どうぞ、どうぞ」


明るい声だった。


彼女も笑顔で頭を下げる。


「先日は、


いろいろお話を聞かせてくださって、


ありがとうございました」


「いえいえ」


奥から、


元刑事さんと奥様も出てきた。


「さあ、


どうぞ。


お入りください」


三人とも、


変わらず優しい。


リビングに案内され、


私たちは、


ソファーに三人並んで座った。


向かいに座った元刑事さんが、


すぐに話を切り出した。


「娘さんのご主人から、


病院に電話があったそうですね」


看護師さんが、


小さくうなずいた。


「はい」


「不安になられたと思います」


元刑事さんは、


落ち着いた声で続けた。


「でも、


一人で抱え込まなくて大丈夫です。


この前もお話ししたように、


私にできることは、


できる限り協力させていただきます」


そして、


少しだけ表情をやわらげた。


「一度は、


もう一人の娘だと思って、


保証人になったんですから」


看護師さんの顔に、


泣きそうな、


それでいて嬉しそうな表情が浮かんだ。


「心強いです。


ありがとうございます」


看護師さんがそう言うと、


彼女がすぐに続けた。


「私たちにも、


何かできることがあるかもしれません。


できることがあれば、


協力させてください」


元刑事さんが、


うなずいた。


「ありがとうございます。


お願いすることが、


出てくるかもしれません」


少し考えてから、


続けた。


「ただ、


娘さんのご主人には、


慎重に対応した方がよさそうです」


看護師さんが、


元刑事さんを見る。


「これからどうするかは、


お母さまのお考えも伺いながら、


一つずつ、


皆さんで相談して進めていきましょう」


その口調には、


焦りがなかった。


私は、


元刑事さんの話し方を聞いているうちに、


さっきまでの緊張が、


少しずつほどけていくのを感じた。


看護師さんの表情も、


さっきより穏やかになっている。


「協力していただけると言ってくださって、


本当に嬉しいです」


看護師さんが言った。


「私一人では、


あの人にどう向き合えばいいのか、


正直、


分からなくて……」


そこで、


言葉が止まった。


少し迷っているようだった。


「それと……」


看護師さんは、


元刑事さんと奥様を見た。


「先に、


お話ししておいた方がいいことがあります」


「はい」


「娘が、


私に会いたくないと言っているのには、


理由があるんです」


看護師さんは、


膝の上で両手を重ねた。


「実は、


私の主人は、


自ら命を絶ちました」


部屋が、


静かになった。


「本当の理由は、


私にも分かりません」


少し間を置く。


「でも、


その時、


娘は私に言ったんです」


看護師さんの声が、


少し小さくなった。


「『お母さんのせいで、


お父さんがあんなことになったんだ』って」


誰も、


言葉を挟まなかった。


「娘には、


そう見えていたんだと思います」


看護師さんは、


一度息を吐いた。


「この前、


娘の病室にも行きました。


眠っていたので、


起こさずに、


メモだけ置いて帰りました」


「……はい」


「あとでそのメモを見た娘が、


担当の先生に、


母親には会いたくないって、


言ったそうです」


看護師さんは、


少しうつむいた。


「家族のことなので、


どこまでお話しするか迷ったんですけど……」


顔を上げる。


「これから娘のことで、


力を貸していただくなら、


知っておいていただいた方がいいと思って」


元刑事さんが、


ゆっくりうなずいた。


「お辛かったですね……」


声は、


とても静かだった。


「話してくださって、


ありがとうございます」


隣に座っている奥様も、


優しくうなずいていた。


元刑事さんは、


両手で膝を軽く叩いた。


「分かりました」


そして、


看護師さんをまっすぐ見た。


「これからも、


娘さんのことは、


もう一人の娘だと思って、


関わらせてもらいます」


看護師さんの目が、


少し潤んだ。


「私はもう、


退職していますからね」


元刑事さんは、


少し笑った。


「時間だけは、


たっぷりあるんです」


看護師さんも、


わずかに口元をゆるめた。


「お役に立てることがあるなら、


遠慮なく言ってください。


私にとっても、


嬉しいことですから」


看護師さんは、


何も言えなくなったようだった。


目に涙がたまっている。


私は、


バッグからハンカチを取り出した。


そして、


何も言わず、


看護師さんの膝の上に置いた。


看護師さんが、


私を見た。


私も、


何も言わなかった。


思うようにいかないことの方が、


多いのかもしれない。


娘さんは、


今も看護師さんに会いたくないと言っている。


夫のことだって、


どうなるのか分からない。


それでも、


こんなにも力を貸してくれる人たちがいる。


彼女の表情も、


さっきより明るくなっていた。


看護師さんの顔からも、


張り詰めていたものが、


少し消えている。


安堵だけではない。


自分一人ではないことが、


嬉しいのだろう。


そんなふうに見えた。


私は、


電車の中で祈った言葉を思い出していた。


――神様、


助けてください。


もしかしたら、


これは、


あの祈りへの答えの一つなのかもしれない。


私は、


黙ったまま、


そんなことを思っていた。

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