第188話 神は愛です
私たちは、
言葉少なになっていた。
病院を出ると、
雨が降っている。
雨になるとは思っていなかったので、
誰も傘を持っていない。
入り口の近くには、
何台ものタクシーが並んでいた。
看護師さんが、
その列を見て言った。
「タクシーにしよう」
そして、
私たちを振り返った。
「ちょっと、
行きたいところがあるんだけど……。
付き合ってくれる?」
「どこ?」
私が聞くと、
彼女がすぐに答えた。
「どこでもいいじゃない。
お付き合いしますよ。
どこでも」
笑っている。
私たちは、
一台のタクシーに乗り込んだ。
助手席に看護師さん。
後ろの席に、
私と彼女。
「神戸須磨シーワールドまで、
お願いします」
看護師さんは、
それだけ運転手さんに告げると、
私たちの方を振り向いた。
「娘が子どもの頃、
よく連れて行ったの。
水族館」
彼女の顔が、
ぱっと明るくなった。
「水族館なんて、
何年ぶりだろう。
楽しみだなあ」
「なんだか、
急に行きたくなったの。
せっかくお休みもらったんだし、
今日はゆっくりしよう」
そして、
少し笑った。
「今日は全部、
私のおごり。
お金のことは、
心配しなくていいから」
そう言ったあと、
看護師さんの表情が、
少しだけ変わった。
「話したいことも、
あるし……」
彼女は、
何も聞き返さなかった。
「ゆっくり、
聞かせてもらいますよ」
落ち着いた声だった。
*
シーワールドに着くと、
私たちは、
シャチやイルカのショーを観た。
水しぶきが上がるたびに、
彼女が声を上げて笑う。
看護師さんも、
何度も笑っていた。
私も笑った。
でも、
頭の片隅では、
看護師さんの、
「話したいこと」
がずっと気になっていた。
ショーが終わると、
看護師さんが、
大きく伸びをした。
「アイスクリームでも、
食べようか?」
*
「あー、
おいしかった」
彼女がそう言って、
最後のひと口を食べ終えた。
少しして、
看護師さんが口を開いた。
「聞いてくれる?」
私と彼女は、
看護師さんを見た。
「たぶん、
娘は転院したくないって言うと思うの」
私たちは、
言葉を挟まなかった。
「先生からは、
解離性健忘の可能性があるって聞いてるけど……。
私には、
何もかも忘れてしまっているようには、
思えないの」
看護師さんは、
少し考えながら話していた。
「特に、
私との間にあったことは……。
感情も含めて、
何か残ってるんじゃないかなって思う。
もちろん、
私がそう感じてるだけだけどね」
少し間を置いた。
「だから、
すぐには何も変わらないと思う。
転院のことも、
これからのことも……。
先回りして、
心配しすぎるのは、
もうやめようと思ってる」
「そうですよ」
彼女が、
すぐに言った。
「今、
いくら考えても分からないことまで、
心配しなくていいと思います」
「ありがとう」
看護師さんは、
そう言ってから、
しばらく黙っていた。
そして、
私たちを見た。
「でもね。
私が話したいのは、
娘のことだけじゃないの」
声が、
少しゆっくりになった。
「今まで、
いろんなことがあった」
私たちは、
黙って聞いていた。
「主人が突然、
自ら命を絶った」
看護師さんは、
視線を落とした。
「娘は、
お父さんが死んだのは、
お母さんのせいだって言った。
そこから、
私たち親子の間には、
大きなひびが入った」
少し間があった。
「そして、
今度は娘が、
こんな状態になった……」
看護師さんは、
一度、
ゆっくり息を吐いた。
「私ね。
いろんなことを、
考えたよ」
そして、
小さく首を振った。
「でも、
考えても考えても、
分からないことばっかりだった」
雨の音が、
どこか遠くで聞こえているような気がした。
看護師さんが、
もう一度、
私たちを見た。
「あのね……。
今日、
話しておきたかったことっていうのはね……」
少し、
言葉を探しているようだった。
そして、
静かに言った。
「聖書に、
『神は愛です』
っていう言葉があるでしょ」
私たちは、
黙ってうなずいた。
「私、
その言葉を信じて、
生きていくことに決めたの」




