第187話 母の焦り
四十分ほど経った頃だった。
看護師さんが、
私たちのいるロビーへ戻ってきた。
少し、
複雑な表情をしていた。
「娘に会ってきたよ」
私と彼女は、
看護師さんを見た。
「先生から、
短い時間ならいいって、
許可をもらってね。
でも、
眠ってたから、
話はできなかった」
看護師さんは、
私たちの向かいに座った。
「顔を見られただけで、
今日はそれでいいと思ってる」
少し間を置いて、
続けた。
「『母です。
眠っていたので、
今日は帰ります。
明日また来ます』
って、
メモを置いてきたの」
看護師さんは、
膝の上で両手を重ねた。
「あれを見て、
娘がどう思うかは、
分からないけど……。
それでもいい。
時間をかけて、
ゆっくりいくよ」
そして、
私たちを見た。
「せっかく来てもらったのに、
ごめんね」
彼女が、
すぐに首を振った。
「いいえ。
でも、
明日も一緒に来ていいですか?」
「そう?
もちろん、
私はかまわないよ」
私は、
看護師さんに聞いてみたいことがあった。
「ちょっと、
聞いてもいいですか?」
「なに?」
「娘さんって、
何が好きなんですか?」
「好きなもの?」
「はい。
たとえば、
海が好きとか、
音楽が好きとか……。
何か、
娘さんが昔から好きだったもの」
看護師さんは、
少し考えた。
「そうねえ……。
絵を描くのが、
好きだったかな」
「絵?」
「高校生の頃は、
漫画家になりたいって言ってたよ」
「漫画家……ですか」
「どうして?」
「今すぐじゃなくても、
娘さんが、
少し外の世界に気持ちを向けられるような、
何かきっかけにならないかなって……」
すると、
彼女が言った。
「動物は?」
看護師さんが、
彼女を見た。
「娘さん、
動物は好きですか?
たとえば、
ももとかカールみたいな……」
看護師さんの表情が、
急に変わった。
「あっ……」
そして、
少し身を乗り出した。
「そうだ。
娘、
動物が大好きだった」
しばらく、
考え込むようにしていた。
「小さい頃から、
本当に好きだった。
私、
どうして思いつかなかったんだろう。
ももとカールで、
ベッド訪問までしてるのに……」
彼女が言った。
「すぐじゃなくても、
病院が許可してくれるなら、
いつか、
ももとカールに会ってもらうことは、
できないでしょうか」
少し間を置いて、
続けた。
「無理なら、
写真を見てもらうだけでもいいと思います。
できることを、
できる範囲でやってみましょうよ」
「そうだね」
看護師さんは、
立ち上がった。
「ちょっと、
先生に相談してみる」
そう言って、
精神科病棟の方へ、
足早に歩いていった。
彼女が、
その後ろ姿を見ながら言った。
「主治医の先生に、
聞きに行ったんだと思う」
「うん」
私は、
うなずいた。
「こうやって、
みんなで話してると、
自分一人じゃ思いつかなかったことが、
出てくるんだね」
彼女は、
少し黙ってから言った。
「私が今、
こうしていられるのだって、
あの二匹のおかげだから」
しばらくして、
看護師さんが戻ってきた。
さっきまでとは違って、
表情が曇っていた。
私たちは、
すぐに何かあったのだと分かった。
看護師さんは、
ゆっくり座った。
「先生と、
話してきた」
誰も、
急かさなかった。
「ももとカールのことは、
娘の状態を見ながら、
また考えましょうって」
そして、
一度、
唇を結んだ。
「それから……」
看護師さんの声が、
少し小さくなった。
「娘、
私が置いてきたメモを見たみたい」
「……」
「先生に、
『母親には、
来ないように伝えてほしい』
って、
言ったんだって」
誰も、
すぐには言葉が出なかった。
看護師さんは、
膝の上の手を見つめていた。
彼女が、
そっと、
看護師さんの肩に手を置いた。
「今は、
会いたくないんですね」
看護師さんは、
小さくうなずいた。
彼女は、
そのまま静かに言った。
「だったら、
今は、
その気持ちを大事にしましょう」
看護師さんが、
彼女を見た。
「会わなくても、
できることはあると思います。
手紙だってあるし、
絵が好きだったなら、
いつか何かにつながるかもしれない。
ももとカールだって、
急がなくていいです」
そして、
優しく言った。
「焦らないで、
いきましょう」
看護師さんは、
ゆっくり目を閉じた。
しばらくして、
息を吐いた。
「そうだね……」
目を開いた。
「私、
焦ってた」
少し考えてから、
自分に言い聞かせるように言った。
「できることを、
できる範囲でやる」
そして、
もう一度、
静かにうなずいた。
「それでいいんだね」
さっきまでの焦りが、
看護師さんの顔から、
少し消えていた。




