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第186話 この手で抱きしめたい

看護師さんが言った。


「お休みをいただいている間に、


できることは、


しておきたいの」


少し考えてから、


続けた。


「娘の主治医の先生は、


もう少し落ち着いてから会う方がいいって、


言ってたんだけど……。


でも、


ただ待っているだけじゃなくて、


明日、


もう一度先生に相談してみようと思うの」


私たちは、


黙って聞いていた。


「もし、


少しだけでも会っていいって言ってもらえたら、


娘の顔を見てくる。


様子を見て、


今日は帰った方がいいと思ったら、


すぐ帰るよ」


すかさず、


彼女が言った。


「私たちも、


ついて行っていいですか?」


看護師さんが、


彼女を見た。


「もちろん、


最初は看護師さんと娘さん、


二人だけで十分に時間を取ってください。


そのあとで、


もし娘さんが会ってもいいって思ってくれたら……。


私も、


会わせてもらいたいです」


少し間を置いて、


続けた。


「何か話したいことがあるなら、


聞かせてもらいたいです」


看護師さんは、


ゆっくりうなずいた。


「分かった。


ありがとう。


でも、


私だって、


話ができるかどうか分からないからね」


「分かってます」


彼女はそう言うと、


私を見た。


「ねえ」


「うん」


*


翌朝。


三人で、


一階のカフェへ行き、


モーニングを食べながら、


今日のことを話していた。


何人かの看護師さんたちが、


カフェへ入ってきた。


「おはようございます」


「あっ、


おはよう」


「お話、


伺ってます。


師長、


今はゆっくり休んでくださいね」


「ありがとう」


一人の看護師さんが言った。


「もし、


何か判断に迷うことがあったら、


連絡させてもらうかもしれません。


その時だけ、


お願いします」


「分かった。


いつでも連絡ちょうだい」


そのやり取りを聞いていた彼女が、


看護師さんに言った。


「あんまり忙しくしてると、


また心が疲れちゃいますよ」


「うん。


ありがとう」


看護師さんは、


少し黙った。


そして、


両手を見ながら言った。


「今日、


娘に会えたとしてもね、


何も話さなくてもいいと思ってるの」


私たちは、


看護師さんを見た。


「この手で、


抱きしめてあげたいの。


それができたら、


今日は、


それだけでいい」


彼女は、


しばらく何も言わなかった。


そして、


小さな声で言った。


「娘さん、


幸せだと思います」


それだけだった。


私は、


その言葉を聞きながら、


彼女がこれまで通ってきた痛みを思った。


親から、


そんなふうに抱きしめてもらった記憶は、


彼女にはほとんどないのかもしれない。


だからなのだろうか。


彼女の、


「幸せだと思います」


という短い言葉が、


妙に心に沁みた。


*


私たちは今、


警察病院の一階ロビーにいる。


私と彼女は、


ここで待つことにした。


「じゃあ、


行ってくるね」


看護師さんはそう言って、


足早に歩いていった。


受付で事情を伝えると、


しばらくして、


主治医の先生に呼ばれた。


「どうぞ」


診察室へ入る。


主治医の先生は、


看護師さんに椅子を勧めた。


「そちらの院長先生からも、


お話は伺っています」


院長先生が、


あらかじめ連絡してくれていたらしい。


「今日の状態でしたら、


短い時間であれば、


会っていただいて構いません。


ただ、


まだ不安定なところがありますので、


眠っているようでしたら、


無理に起こさないであげてください」


「分かりました。


ありがとうございます」


「看護師に案内させますので、


少しお待ちください」


話は、


驚くほどスムーズに進んだ。


しばらくして、


病棟の看護師さんが迎えに来た。


「精神科病棟は、


別館になります。


こちらからどうぞ」


長い通路を渡った。


エレベーターに乗り、


七階へ上がる。


看護師さんの胸には、


少しずつ緊張が戻ってきていた。


七階で降り、


静かな廊下を歩く。


一つのドアの前で、


案内してくれた看護師さんが立ち止まった。


「こちらです。


どうぞ……」


個室だった。


娘さんがいた。


眠っていた。


看護師さんは、


足音を立てないように、


ゆっくりベッドの横まで近づいた。


頬がこけている。


顔色もよくない。


腕には、


点滴がつながっていた。


看護師さんは、


しばらく、


何も言わずに娘を見ていた。


そして、


ベッドの周りを見渡した。


荷物が、


あまりにも少なかった。


看護師さんは、


バッグから、


小さな手帳とボールペンを取り出した。


一枚、


紙を切り離した。


そこに、


ゆっくり書いた。


「母です。


眠っていたので、


今日は帰ります。


明日、


また来ます」


それだけだった。


二つ折りにして、


ベッド脇のテーブルの、


目につくところへ置いた。


起きるまで、


待つこともできた。


でも、


眠っている娘を見ているうちに、


言葉が出なくなっていた。


看護師として見ても、


身体は、


かなり消耗しているように思えた。


転院の調整は、


できるだけ早く進めてもらいたい。


そう思った。


看護師さんは、


娘へ手を伸ばしかけた。


でも、


その手を止めた。


今は、


眠らせてあげよう。


「この手で、


抱きしめてあげたい」


朝、


そう言っていた。


けれど、


その日は、


眠っている娘を、


ただ見つめることしかできなかった。

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