第185話 神様の声は聞こえないけど
看護師さんが言った。
「食べきれない分は、
タッパーに入れて、
冷蔵庫に入れておくから。
食べられる分だけにしようね」
すると彼女が、
「私は、
まだお腹空いてますから」
と、
看護師さんを睨むようにして笑った。
また、
みんなで笑った。
食事は、
まだまだ終わりそうになかった。
しばらくして、
看護師さんが、
しみじみと言った。
「あの元刑事さんの言葉……」
私たちは、
看護師さんを見た。
「『遠慮なく相談してください。
力になれると思います』
って、
言ってくださったでしょ」
少し間を置いた。
「あの言葉を聞いた時だったの。
突然、
あの老人が聞いた、
神様の声のことを思い出したの」
そして、
私の方を見た。
「あなたも、
聞いたんでしょ。
『休ませてあげます』
っていう声」
「はい」
「私は、
聞いたわけじゃないよ。
でもね、
なぜか突然、
あの言葉を思い出したの」
看護師さんは、
グラスを指でゆっくり回した。
「娘の夫のことを考えると、
ずっと心が休まらなかった。
何をしてくるか分からない。
どうやって娘を守ればいいんだろうって……。
ずっと、
頭から離れなかったの」
少しだけ、
声が小さくなった。
「でも、
あの元刑事さんが、
力になりますって言ってくださった瞬間、
ふっと、
心が軽くなったの」
そして、
もう一度、
私を見た。
「それでなのかな。
『休ませてあげます』
っていう言葉を、
思い出した」
看護師さんは、
静かに息を吐いた。
「もし、
神様が本当に、
私にもそう言ってくださっているのなら……。
全部、
自分一人で抱えなくてもいいのかなって、
そう思えたんだよ」
少し間を置いて、
続けた。
「ほんとに、
そう思ったの」
そう言って、
ビールをおいしそうに飲んだ。
「私ね、
今、
不思議なくらい安心してるんだよ」
私と彼女は、
黙って聞いていた。
「娘が摂食障害で、
三十九キロしかないって聞いた時、
食事が喉を通らなかった」
看護師さんは、
テーブルの上を見た。
「でも、
ほら。
今は、
こんなに食べてる。
ビールまで飲んでる」
少しだけ、
自分がおかしいように笑った。
「娘のことだって、
もちろん心配だよ。
何も解決してない。
でもね……」
看護師さんは、
少し遠くを見るような目をした。
「いつか、
娘がまた笑っている顔を、
思い浮かべられるようになったの」
そして、
ゆっくり言った。
「私には、
神様の声は聞こえないけど……。
もしかしたら、
『休ませてあげます』
っていう言葉を、
少しずつ体験させてもらってるのかもしれないね」
看護師さんの表情が、
穏やかだった。
しばらくして、
思い出したように、
彼女へ顔を向けた。
「あっ。
そういえば、
いつからカフェで働くの?」
「私は、
いつでもいいんですけど、
たぶん来週からになると思います。
オーナーさんが、
看護師さんの娘さんのことで、
何かお手伝いすることがあるなら、
落ち着いてからでいいって言ってくれてます」
「そうなんだ」
看護師さんは、
うなずいた。
「娘がこの病院へ転院するのは、
早くても十日くらいはかかると思うの」
それから、
少し考えて言った。
「まあ、
これからのことを、
今、
全部決めなくてもいいね」
そして、
ゆっくり言った。
「ゆっくりいこう」
今日の看護師さんは、
よくしゃべる。
その一つ一つを聞いていると、
それまで、
どれほど苦しんできたのかが、
かえって伝わってきた。
彼女が、
すっと立ち上がった。
看護師さんの後ろへ回り、
何も言わずに、
肩を揉み始めた。
「あー、
気持ちいい」
看護師さんが、
目を細めた。
「もうちょっと下。
肩甲骨の方もやって」
「はい、はい」
二人とも、
すっかり遠慮がない。
ちょっと、
羨ましいくらいだった。
すると、
カールが、
私の体に、
そっと寄り添ってきた。
私は、
その大きな体に手を置いた。
看護師さんが、
こちらを見た。
「カール。
そのお姉ちゃん、
私たちにヤキモチ妬いてるみたいだから、
優しくしてあげなよ」
「ちょっと!」
私が言うと、
彼女が吹き出した。
看護師さんも笑った。
私も、
つられて笑った。
三人の笑い声が、
開いた窓から入ってくる海風に、
溶けていった。
カールの体は、
あたたかかった。
こんなふうに、
誰かと一緒に笑っている自分を、
少し前の私は、
想像できただろうか。
私は、
自分の中に、
確かに回復の兆しがあることを感じていた。




