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第184話 喜びの涙

コン、コン。


ドアをノックする音がした。


彼女がドアを開けると、


院長先生が、


両手に少し大きめの袋を提げて立っていた。


袋の中には、


お弁当や飲み物。


それに、


大きなお皿に盛られた肉料理なども見えた。


看護師さんが、


目を丸くした。


「ええっ!


どうして院長先生が……」


「うん。


私からの差し入れだよ」


院長先生は、


袋を持ち上げてみせた。


「娘さんのことで、


ずっと忙しそうにしてたからね。


それに、


この病院の患者さんたちのために、


今まで働き詰めだっただろう。


いい機会だ。


あと二、三日、


休んでくれていいから」


「でも……」


「いいから。


そうしなさい。


有給も、


ほとんど使ってないそうじゃないか」


そして、


もう一つの袋を見せた。


「ももとカールの分も、


ちゃんと買ってきたから。


しっかり休むんだよ。


看護師長に倒れられたら、


病院全体が困るからな。


ハッハッハッ!」


看護師さんは、


深々と頭を下げた。


「ありがとうございます」


「じゃあ」


院長先生は、


それだけ言うと、


笑顔でウインクまでして、


出ていった。


彼女が、


閉まったドアを見ながら言った。


「ここ、


いい病院ですね」


看護師さんは、


黙ってうなずいた。


そして、


大きな二つの袋を見た。


「買い物に行かなくても、


よくなったみたいだね。


遠慮なく、


いただくことにしましょう」


少しして、


看護師さんがぽつりと言った。


「私、


幸せだよ。


本当に……」


目が、


少し赤くなっていた。


「ももとカールのベッド訪問を始めてからね、


働いてる看護師たちが、


前よりよく笑うようになったの。


もちろん、


患者さんたちも……。


子どもたちだけじゃないよ。


親御さんたちも、


すごく喜んでくれてる」


看護師さんの表情が、


やわらいだ。


「やってよかったって、


思ってる」


少し間を置いて、


続けた。


「あの元刑事さんも言ってたけど、


ルールを守ることは、


もちろん大切。


でも、


それだけじゃなくて、


決められた範囲の中でも、


まだできることって、


たくさんあると思うの」


涙で少し赤くなった目が、


生き生きとしていた。


*


カールは、


お行儀よく座って待っている。


でも、


口元からは、


いつものように、


ものすごい量のよだれが出ていた。


どうやら、


おいしそうな肉の匂いに、


完全にやられているらしい。


ドッグフードの時も喜ぶけれど、


今日のよだれは、


比べものにならない。


仕方なく、


彼女が、


カールの口元の下にタオルを敷いた。


「もうちょっと待ってね。


今、やってるから」


優しく声をかける。


看護師さんが言った。


「いつもは、


ももとカールが先だけど、


今日は、


みんな一緒にいただくことにしましょう」


ももとカールの前にも、


ごちそうが並んだ。


看護師さんは、


グラスを手に取った。


「今日は、


彼女の新しい出発に、


乾杯させてもらうよ」


そして、


私たち二人を見た。


「いや。


それだけじゃないな。


あなたたち二人への感謝も込めて、


乾杯だ」


それから、


ももとカールにも目を向けた。


「もも。


カール。


どうぞ!」


私たちも、


グラスを持った。


「かんぱーい!」


看護師さんは、


本当に嬉しそうだった。


嬉しい時に、


嬉しい顔をしている。


それを見ているだけで、


私まで気持ちがよくなった。


看護師さんは、


グラスをテーブルに置くと、


少し静かになった。


「私が一番気になってたのは、


娘の夫のことだったの」


さっきまでとは、


少し声が違っていた。


「本当はね……。


本当は……」


言葉を探すように、


少し間を置いた。


「殺してやりたいくらい、


憎んでた。


娘をあんな目に遭わせて……。


赦せないって思ってた」


誰も、


何も言わなかった。


「でも、


それと同じくらい、


怖かったの。


話が通じる相手じゃないような気がして……。


それが、


ずっと怖かった」


看護師さんは、


息を吐いた。


「でも、


あの元刑事さんが、


何かあったら相談してくださいって言ってくれた。


力になりますって、


言ってくださった……」


そして、


小さな声で言った。


「嬉しかった……」


自分で二杯目を注ぎ、


ゆっくり口に運んだ。


彼女の目も、


少し赤くなっていた。


彼女は、


今度は私を見た。


「無理して、


食べたり飲んだりしないようにね。


自分のペースで。


いい?」


看護師さんも、


私を見てうなずいた。


「うん」


私は答えた。


この場の雰囲気に流されて、


無理をするのはやめよう。


摂食障害のことは、


これからも慎重に向き合っていきたい。


でも、


嬉しいという気持ちは、


二人に負けないくらいあった。


目の前には、


少し高そうな料亭のお弁当が三人分。


それから、


大きなお皿いっぱいのオードブル。


彼女が、


ひと口食べるなり、


「おいしーい!」


と、


叫ぶように言った。


看護師さんの顔も、


だんだん赤くなってきた。


私は、


オードブルの中の、


エビとサーモン。


それから、


薄く切られた柔らかそうな肉を見つめた。


そして、


声を出さずに祈った。


神様。


ちゃんと、


おいしく食べられますように。


また、


食べることが怖くならないように、


守ってください。


私は、


箸を伸ばした。


まず、


サーモンを一切れ。


口に入れる。


しばらく、


ゆっくり噛んだ。


「あっ……」


思わず、


彼女より大きな声が出た。


「おいしーい!」


看護師さんと彼女が、


同時に拍手した。


私は、


思わず笑ってしまった。


なんの拍手なんだろう。


ももは、


目を丸くして、


私たちを見回していた。


娘さんのことは、


まだ何も解決していない。


これから、


大変なこともあると思う。


それでも、


今この部屋には、


確かに喜びがあった。


看護師さんの、


「私、幸せだよ」


という言葉が、


私の中にも染み込んできた。


私はこれまで、


苦しさや痛みで、


たくさん泣いてきた。


でも、


この時、


この部屋で、


初めて知った。


嬉しくても、


涙は出るんだ。

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