第183話 ほんの少しずつ
私は、
ももを抱いて、
窓の外を見ていた。
駅の向こうに見える海が、
夕陽に照らされている。
その景色が、
妙に心に沁みた。
あの海岸で、
初めて老人のハーモニカを聴いた時のことを思い出した。
もし、
人生にターニングポイントというものがあるのなら、
私にとっては、
あのハーモニカを聴いた時だったのかもしれない。
確かに、
あの頃から、
それまでとは違う何かが、
私の中に生まれ始めた。
神様を、
意識するようになった。
自分で、
そうしようとしたわけではない。
何か、
目に見える奇跡が起きたわけでもない。
気がつけば、
それまで閉じていたドアの向こう側に、
自分の居場所があった。
そんな感じだった。
*
カールの前足が、
パタパタと動き始めた。
尻尾の振りも、
だんだん大きくなる。
二人が帰ってくる。
そんな気がした。
しばらくして、
ドアが開いた。
「帰ったよ。
ただいま」
看護師さんの声が、
明るかった。
無理をして出している明るさではない。
そんなことが、
声を聞いただけで分かった。
私の気持ちも、
一気に軽くなった。
彼女が、
なんだかいつもよりきれいに見えた。
笑っているからだろうか。
とにかく、
二人とも表情がいい。
「ももとカールが、
待ちくたびれてましたよ」
私が言うと、
「ごめん、ごめん」
と、
看護師さんが答えた。
「一階のカフェのオーナーにも、
顔を出してたの。
彼女をよろしくお願いしますって。
昔からの友人だから」
「ああ、
それでですか。
やっと分かりました」
私は、
カールを見た。
「三十分くらい前に、
一度カールがドアの前で、
お出迎えしてたんですよ。
それなのに、
なかなか帰ってこないから、
不思議そうにしてました」
彼女が、
看護師さんを見た。
「一度、
部屋に戻ればよかったですね」
「ほんとだ」
看護師さんは、
そう言ってから、
私たち二人を見た。
「本当に、
いろいろ世話になったね。
ありがとう」
少し間を置いて、
続けた。
「まだ、
娘のことは何も解決してないけど……。
504号室のご両親に会って、
娘のことや、
夫のことも、
いろいろ聞かせてもらったよ。
すぐには解決できないことも、
たくさんあると思う。
これからも、
いろいろあるだろうけど……」
そして、
私たちを見た。
「また、
力を貸してね。
頼りにしてるから……」
私たちは、
顔を見合わせて、
大きくうなずいた。
看護師さんは、
今度は彼女を見た。
「それに、
この人。
カフェでアルバイトしながら、
メンタルの会や、
子どもたちのベッド訪問も、
手伝ってくれるって言ってくれたの」
私を見て、
続ける。
「知ってたんでしょ?」
「はい」
「もう、
飛び上がるくらい嬉しかったよ」
看護師さんが、
そんなに喜んでくれたことに、
私はほっとした。
正直、
どんな反応をするのか、
少し気になっていた。
でも、
それ以上に、
私は自分の気持ちの変化に気づいていた。
恥ずかしいけれど、
以前の私は、
自分以外の誰かが前へ進んでいくことを、
素直に喜べない時があった。
そんな自分が、
嫌だった。
でも今は、
彼女が前へ進んでいくことが、
自分のことのように嬉しい。
私は、
神様を信じるようになってから、
ほんの少しずつ、
変わってきているのかもしれない。
彼女も、
嬉しそうだった。
看護師さんが言った。
「今日は、
彼女の新しい出発を、
お祝いしたいの。
どこかのお店じゃなくて、
この部屋で。
時間を気にしないで、
ゆっくりと。
どう?」
彼女が、
ももとカールに向かって言った。
「晩ご飯は、
ごちそうらしいよ」
すると、
カールの耳が、
レーダーみたいに、
ぴんと前を向いた。
私は思わず、
カールを見た。
やっぱり、
言葉が分かってるんじゃないだろうか。




