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19 赤いハーモニカ

体が冷えている。


「あっ!」


眠ってしまったんだ!


こんな薄着で...

一晩海岸で寝込んでしまった。


時計を見る。

AM5:40


辺りは薄明るくなっていた。

冬なら死んでいたかもしれない。


そうだ。昨日老人のハーモニカの音を思い出して、頭の中で再生していたんだ。


故郷の歌詞に出てくる田舎の風景と香りを味わっているうち眠ってしまった。


8時間ほど熟睡していたことになる。


適応障害になって、1時間以上連続して眠ったことがなかったのに...


老人が来てくれなかったショックと海の暗さの恐怖で、心も体も疲れ切っていたのだろうか?


いや違う。

疲れ切っているのはいつものことだ。

疲れだけで眠れることはない。


何の薬も飲んでいないのに...

昨日の夜は気が触れるんじゃないかと本当に怖かったのに...


今は元気だとまでは言えないが、恐れは消えている。


ひとりで帰れそうだ。

普通になっている。


不思議だ。

生きていると不思議なことに出くわすことが時々起こる。


もう電車は動いている。

とにかく部屋に帰らないと...


夕暮れの海とはまったく違う景色と匂いがしていた。

波の音も朝はなんか違う。


月が地球の周りを回る時、海水は月の引力に引っ張られると聞いたことがあるが、人の感情にも何か影響があるのだろうか?


昨日の夜は本当に死ぬかもしれないと思っていた。




部屋に着いても老人のことが心配で、あれこれ考えてしまう。


今ごろ何処かの病院のベッドの上で寝かされているのだろうか?


それとももう死んでしまって....。

.....。


何を考えているんだ!


頭を振って嫌な考えを追い出す。



バナナを半分とヨーグルト、それにクラッカー2枚、頑張って口に入れる。

それ以上食べられない。


軽くシャワーをして着替えを済ませた。


椅子に座ると、昨晩あの海岸で寝ている時に見た夢を突然思い出す。


目が覚めた時には夢を見ていた感じはなかったのに、急に今になって思いだした。


赤いプラスチック製のおもちゃのようなハーモニカを吹いている夢だった。


老人の吹く心に染み渡るような澄んだ音ではなく、いかにも安物のこもったような音だ。


私はそのハーモニカであの故郷を吹いていた。


こもった音を聞いているうちに、夢の中で私は少女に戻っている。


他にも2、3人仲の良い同じクラスの女の子と一緒だ。


校舎の隅にあるうさぎ小屋で、白いうさぎと茶色っぽくて少し小さなうさぎに水をあげた。


うさぎは鼻をヒクヒクさせてとても可愛い。


すると、小さい方のうさぎが小屋の隙間から逃げ出して、裏山の方にぴょんぴょん飛び跳ねて行ってしまい、みんなでキャーキャー騒ぎながらうさぎを追いかけた。


夢を見てもいつもは起きた瞬間に忘れたしまうのに、昨夜の夢は不思議だ。

今になって初めて思い出す。


ウサギ小屋の匂いと白い方のウサギの柔らかい毛の手触りまで覚えている。


うすい青とピンクのグラデーションの空が白い雲と混ざり合ってとても綺麗で、夢なのに忘れられない。


そんな雰囲気の中で友達と笑い合って、とても幸せだった。


夢の中で恐怖で傷ついた心を癒す修復プログラムのようなものが働いてくれたのだろうか?


人間の心の仕組みは簡単に説明できるものではない。


ウサギ追いし、かの山...

小鮒釣りし、かの川...


この歌詞から私が勝手なストーリーを作り出してしまったのだろう。


震災の被災者を励ますコンサートで、故郷を歌って下さいという声が多いと聞いたこともある。


この歌には恐怖と苦しみを追いだすような何か特別なものがあるのだろうか?


本当のところはわからないが、この曲が頭の中で再生された後、私が毛布もないあの海岸で連続して8時間以上眠れたことは事実だ。


私にとっては奇跡だ。


脳神経にこびりついていた黒い粘液が少し洗い流されていたようにも感じる。



今日、あの海に行くのが少しこわい。

もし、今日も会えなかったら、それは老人に厳粛な時が訪れたことを覚悟しなければならない。


午後3時になった。


駅に向かう途中にある楽器屋が目に止まると、吸い込まれるように中に入っていった。


メトロノームがたくさん並んでいる横にハーモニカが見える。


そんなに高くない。

安いのは680円と書いてある。


何で私は入ったこともない楽器屋にいるのだろうと思っていた。


あまり考えず、たまには衝動買いしてみようと考える。

迷う値段でもなかったからだ。


缶コーヒーを買うように買っていた。

あの海岸でちょっと吹いてみよう。


そうしてみよう。

こういうのを寄り道というのだろう。


私がこの楽器屋に寄り道したのは、あの海岸に行くのを遅らせたかったからだ。


ハーモニカが欲しかったわけではない。


私は小さな覚悟を胸に忍ばせて海を目指した。


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