18 真っ暗な海
私はあの老人に会うのが楽しみになっている。
しかし、あの苦しくなった時だけ飲んでくださいと書いてあった薬袋のことが気になって仕方がない。
ニトロのような心臓の薬かもしれない。
だとすればあの年齢だ。
いつ何があっても不思議ではない。
(あなたに必要なことがお届けできれば、私はもうそれで十分です)
と言っていた言葉が、私の心の奥まで鋭く迫ってくる。
すでに死を身近に感じておられるのだ。
私は1日も欠かさず、あの海岸に行くと決めた。
私の心の琴線に触れることが出来るのは、あの人だけだ。
嫌な想像だが、老人に何かあって突然の別れになる可能性は低くない。
正直、そう思っている。
今日、ハーブのティーパックをプレゼントしよう。
美味しそうに飲んでくれていた。
夕方4:00前にいつもの海岸に着く。
誰もいない。
4:30、老人の姿はない。
5:20、嫌な予感がする。
6:00、来ない。
7:00、辺りか薄暗くなってきた。
嫌な気配に肺のあたりが締め付けられる。
7:20、小雨が降り出してきた。
何かあったんだ。
絶対そうだ!
私は命綱が、断ち切られるような恐れを感じていた。
8:00、雨は止んだが、真っ暗になった。
名前も連絡先もお互い知らないままだ。
嫌な予感がこんなに早く現実になるとは...
9:00、もう来ないことはわかっているが、足が駅に向いてくれない。
私はこの病のせいで心の耐久性が園児並みになっているようだ。
我慢をするという感じが思い出せない。
子供のように両手の拳を握って泣き出してしまった。
大人の泣き方ではないのが自分でわかる。
夜の海は怖いくらい真っ暗だ。
ひとりぼっちで宇宙に放り出されたような感じがする。
孤独と恐れが私の体の中に入ってきて、内臓まで震えてくるみたいだ。
耐えられるだろうか?
心の負担どころではない。
またあの正気を失いそうな感覚がする。
だめだ。
全身が震えてきた。
ここには誰も助けてくれる人はいない。
一瞬、頭にある考えが浮かんだ。
もし、休ませてあげますという言葉が神の言葉なら、神には私が見えているはずだ。
神がいるなら助けてもらいたい。
震えが大きくなってきた。
心療内科でもらったあのどうしようもない時飲むように言われた薬を取り出す。
でも、もし今ここで飲んでしまえば、この海岸で眠り込んでしまうかもしれない。
眠らなくてもひとりで帰ることはできなくなるだろう。
一度飲んだのでわかる。
私には強すぎる薬だと思っていた。
シャットダウンしてしまう感じだった。
震えに加えて、上半身が左右に揺れているのがわかる。
座ったまま両手で砂浜に手を置いて上半身をささえなければならなくなる。
こんな時は上向きに寝てしまうと、私の場合ひどい目眩が起こる。
今まで何度も体験している。
気持ちが悪くなってきた。
横向きになって砂浜に体を預けよう。
ゆっくり慎重に体の右側を下にして横たえる。
ほっぺたに砂がついた。
小雨が降っていたので、砂は湿っている。
砂の冷たさが危機感に拍車をかける。
このままじっとしていつもの深呼吸をすれば、震えと揺らぎは治るかもしれない。
焦らないように自分に言い聞かす。
何とかなる。何とかなる。
深呼吸がうまくできない。
今回は良くなっていかない。
このまま死んでしまうのかも知れないという恐怖に為す術がない。
怖い。怖い。
もう耐えられない...
突然、あの休ませてあげますという声を聞いた時のように、また山の清流の真水の匂いが漂ってきた。
だが、何も起こらない。
ただ、あの老人のハーモニカが聞こえてくるような気がする。
あのいつも吹いてくれる故郷だ。
目を瞑ると、落ちついた田舎の風景が見えてくる。
明るい緑の田舎の景色が、草や土の匂いと共にこの真っ暗な海岸に舞い降りてきた。
この草の匂い....
ありがたい...
正気に戻れる感じがする。




