第181話 偶然とは思えない
彼女は、
すぐにお隣の奥さんへ電話をかけた。
突然のことだったので、
子どものお世話もあり、
今日は都合がつかないようだった。
でも、
すぐにご両親へ連絡してくれた。
お昼過ぎに、
ご両親が住んでいる504号室へ、
伺うことになった。
*
504号室。
看護師さんが、
チャイムを鳴らした。
インターホンに向かって、
丁寧に言った。
「はじめまして。
娘の母でございます。
このたびは、
娘のことで大変ご親切にしてくださり、
本当にありがとうございます」
しばらくして、
ドアが開いた。
奥様が、
笑顔で迎えてくれた。
「さあ、
どうぞお入りください」
とても優しそうな方だった。
ご主人も、
奥から出てきてくれた。
看護師さんが、
あらためて挨拶した。
「私は病院で看護師をしております。
こちらの彼女は看護師ではありませんが、
同じ病院で、
これからボランティアのお手伝いもしてもらうことになっている、
私の友人です」
彼女は、
「私の友人」
と言ってもらえたことが、
少し嬉しかった。
思わず、
表情がやわらいだ。
ご主人も、
穏やかで優しい顔をしていた。
彼女は、
ご主人が元刑事だと聞いていたので、
勝手にもっと怖そうな人を想像していた。
でも、
目の前の人は、
小柄で痩せていた。
彼女の中にあった、
刑事というイメージは、
一瞬で消えてしまった。
ただ、
その目だけは、
とても印象的だった。
穏やかなのに、
どこか深く、
人をよく見ている目だった。
ご主人は、
優しい口調で言った。
「よく来てくださいました。
私も、
一度お会いして、
お話ししたいと思っていたんです」
看護師さんと彼女は、
その言葉を聞いただけで、
この方なら信頼できる。
そんな気持ちになった。
それだけではない。
娘さんの側に立って、
力になってくれる人なのだと、
自然に思えた。
看護師さんの胸に、
熱いものが込み上げてきた。
すべては、
神様の手の中にあるのかもしれない。
今まで、
これほど神様を身近に感じたことはなかった。
まるで、
自分の知らないところで、
娘の周りを誰かが守ってくれていたような気がした。
ご主人は優しかった。
でも、
ただ優しいだけではなかった。
必要なことは、
曖昧にせず、
はっきり話してくれた。
娘さんの夫が、
どんな人だったのか。
娘さんが、
どんな様子だったのか。
なぜ自分が保証人になることを引き受けたのか。
そして、
家賃や入院費のことまで、
一つずつ話してくれた。
「私はね、
刑事をしていた頃に、
先輩から教えてもらったことがあるんです」
ご主人は、
静かに話し始めた。
「被害者であっても、
加害者であっても、
できる限り、
自分の子どもに接するような気持ちで向き合いなさい。
そう教えられました」
少し間を置いて、
続けた。
「もちろん、
娘さんを最初から被害者だと決めつけていたわけではありません。
ただ、
とても苦しんでおられるように見えた。
だから、
いつの間にか、
もう一人の娘のような気持ちで接するようになっていました」
看護師さんは、
黙って聞いていた。
「お母様へ連絡したくない事情があるようでしたので、
あの時は、
私が保証人を引き受けました。
でも、
これからのことは、
お母様と相談しながら進めていくのがいいと思っています」
そして、
ご主人は、
看護師さんをまっすぐ見た。
「それから、
これまで私が立て替えた入院費や家賃のことですが、
返していただかなくて結構です。
私は、
娘さんを、
もう一人の娘のように思ってやったことですから。
どうか、
そのままにさせてください」
看護師さんは、
言葉を失っていた。
ご主人は続けた。
「もう一つ。
娘さんのご主人のことです。
これから、
何か困ったことや、
心配なことがあれば、
遠慮なく相談してください。
私にも、
力になれることがあると思います」
隣で、
奥様も静かにうなずいていた。
そのあとも、
しばらくいろいろな話をした。
一時間ほど経って、
看護師さんと彼女は立ち上がった。
二人そろって、
深く頭を下げた。
「本当に、
ありがとうございました」
そう言って、
504号室をあとにした。
看護師さんは、
まだ信じられないような気持ちだった。
こんなにも、
娘のことを考えてくれていた人たちがいた。
自分の知らないところで、
娘はずっと、
誰かに守られていた。
一時間ほどの滞在だったのに、
現実の出来事とは思えないほどだった。
*
昼下がり。
二人は、
駅へ向かう道を、
ゆっくり歩いていた。
彼女が言った。
「娘さんの隣に、
あの奥さんがいたことも。
その上の階に、
あんなご両親がいたことも。
それから、
私が看護師さんの病院にお世話になったことも……。
全部、
神様の導きなんじゃないでしょうか」
少し間を置いて、
続けた。
「私には、
もう、
それ以外に思えないんです。
看護師さんは、
どう思いました?」
看護師さんは、
少し考えてから答えた。
「あなたに、
負けないくらいだよ」
「えっ?」
「私も、
偶然だとは思えないってこと」
看護師さんの表情が、
やわらいだ。
「心から、
そう思ったよ。
あなたたちにも、
本当に感謝してる」
そして、
歩きながら言った。
「帰ったら、
あなたの新しい出発に、
乾杯させてね」
彼女は、
嬉しそうに看護師さんを見た。
看護師さんは、
前を向いたまま、
静かに続けた。
「娘のことは……
神様に、
相談させてもらうよ」




