第180話 一人では戦えない
その日の夜遅く、
彼女は警察病院の宿泊室に着いた。
すでに、
十一時を過ぎていた。
看護師さんは、
かなり疲れているようだった。
売店で買ったのだろうか。
おにぎりが二つ、
テーブルの上に置かれていた。
晩ご飯だったのかもしれない。
でも、
まだ手をつけていなかった。
話しかけるのも、
少し気が引けた。
それに、
「そばにいるだけ」
と約束したこともあり、
彼女の方からは、
何も聞かないようにしていた。
でも、
看護師さんの方から、
娘さんのことを話し始めた。
「思っていたより、
娘の状態はよくないみたいなの。
私が誰なのか、
分からないように見えて……。
母親が分からないのかもしれないって思うと、
やっぱりショックだった」
「……」
彼女は、
何も言えなかった。
「私がやっているメンタルの会みたいな、
気持ちを支えるだけのケアじゃなくて、
今は、
きちんと治療が必要な状態なんだと思う。
でも、
私の病院にも、
優秀な専門の先生がいるから。
相談しながら、
できることからやっていくつもりよ」
その夜、
布団に入ってから、
彼女は今日一日のことを話した。
カフェで、
アルバイトをすることになったこと。
看護師さんのメンタルの会や、
子どもたちのベッド訪問を、
手伝いたいと思っていること。
そして、
娘さんのことも含めて、
自分にできることがあるなら、
力になりたいと思っていること。
飾らず、
自分の言葉で話した。
途中で、
「そばにいるだけ」
と約束したことを思い出した。
「すみません。
ただ、
そばにいるだけの約束だったのに、
いろいろ話しちゃって……」
看護師さんは、
彼女の顔を、
じっと見た。
「ありがとう……」
それだけ言って、
反対側を向いた。
しばらくすると、
看護師さんの肩が、
小さく震えていた。
*
翌朝、
八時二十分。
看護師さんが言った。
「娘が住んでたマンションに、
行ってみようと思うの。
管理人さんにも会って、
きちんとご挨拶しておきたいし……。
それから、
お世話になったお隣の奥さんと、
ご両親にも、
お礼を言わなくちゃ」
「私も、
一緒に行っていいですか?」
「助かるよ。
ありがとう」
看護師さんは、
彼女に頼んだ。
「お隣の奥さんに電話して、
今日でもご挨拶に伺いたいって、
伝えてくれる?
それから、
ご両親のご都合も、
聞いてみてほしいの。
今日が難しければ、
ご都合のいい日に、
いつでも伺いますって伝えて」
そのあと、
看護師さんは、
勤め先の院長先生に事情を話し、
休みの許可をもらった。
そして、
私にも、
帰りが遅くなりそうだと、
伝えておいてほしいと頼んだ。
彼女は、
看護師さんが、
目の前のことを一つずつ、
丁寧に片づけていく姿を見ていた。
その早さにも、
少し驚いていた。
でも、
焦っているようには見えなかった。
以前、
看護師さんが言っていた言葉を思い出した。
できることを、
できる範囲でする。
看護師さんは、
ゆっくり振り向いた。
「昨日の、
あなたの言葉……。
嬉しかったよ。
ありがとう」
看護師さんの表情が、
少しやわらいだ。
「あなたたちとは、
長い付き合いになるような気がしてたの。
神様が、
引き合わせてくれたんだって、
今はそう思ってる……」
少し間を置いて、
続けた。
「私も、
一人では戦えないから……」




