第179話 そばにいるだけ
夜八時。
看護師さんは、
まだ戻ってこなかった。
転院の手続きだけをして、
娘さんには会わずに帰ると言っていたので、
夕方には戻ってくると思っていた。
何かあったのだろうか。
夜九時二十分。
彼女のスマホに、
看護師さんから連絡が入った。
彼女は、
すぐにスマホを耳へ当てた。
「もしもし。
はい。
こっちは大丈夫です。
ももとカールも大丈夫……。
はい……。
はい……。
えっ!
それで?
えっ……。
はい……。
はい……。
そうなんですか……。
分かりました」
それだけ言って、
電話を切った。
「なんだって?」
私は、
彼女の顔を見た。
「今日は、
帰れないって」
「なんで?」
「今日は、
娘さんに会うつもりじゃなかったらしいんだけど……。
病院の一階のロビーで、
偶然、
娘さんを見かけたんだって」
彼女は、
少し言葉を詰まらせた。
「あまりにも痩せていて、
点滴をつけたまま、
手すりにつかまって歩いてたって……。
顔のほくろがなかったら、
娘さんだって分からないくらいだったって」
私は、
何も言えなかった。
「看護師さん、
たまらなくなって、
声をかけちゃったみたい。
でも、
娘さん、
人が変わったみたいになってて、
何も話さなかったって。
母親だって分かってるのか、
分かってないのかも、
はっきりしなかったみたい」
彼女は、
一度息を吐いた。
「そのあと、
主治医の先生から、
面会は、
もう少し落ち着いてからの方がいいでしょうって、
言われたらしいの」
「そう……。
今日は、
帰らないんだ……」
私は、
「人が変わったみたいになっていた」
という言葉を聞いて、
背筋が冷たくなった。
彼女は、
座ったまま、
黙って指で畳を撫でていた。
何かを考えている。
そんな顔だった。
しばらくして、
彼女はポケットから、
もう一度スマホを取り出した。
電話のマークを押す。
「もしもし。
私です」
彼女の表情が、
少し引き締まった。
「余計なことをするつもりはありません。
何も言いません。
ただ、
今晩、
看護師さんのそばにいたいんです」
私は、
看護師さんの声が聞こえるかもしれないと思い、
耳を澄ませた。
でも、
何も聞こえなかった。
看護師さんは、
黙っているようだった。
しばらく、
沈黙が続いた。
やがて、
彼女の顔に、
少し表情が戻ってきた。
そして、
声を少しだけ大きくして言った。
「警察病院の二階にある、
家族用の宿泊室ですね。
分かりました。
ご迷惑はかけません。
そばにいるだけです。
約束します」
そう言って、
電話を切った。
私は、
「ももとカールは、
私がちゃんと見てるから」
とだけ言った。
「うん」
彼女も、
それだけ答えた。
そして、
ももとカールの頭を、
順番に優しく撫でた。
「泣く者と共に泣きなさい」
という言葉がある。
私が泣く時も、
きっと彼女は、
私のそばにいて、
一緒に泣いてくれるのだろう。
そんなことを思いながら、
彼女の後ろ姿を見ていた。
「気をつけて」
「うん」
それ以上の言葉は、
いらなかった。
余計なことを言わずに済んだことが、
なぜか心地よかった。
ドアが、
ゆっくり閉まった。




