第176話 愛に触れた日
彼女が、
独り言のように囁いた。
「私……。
あの……。
あの屋上から飛び降りようとした時のこと、
少し話してもいいですか?」
看護師さんは、
少し驚いたような顔をした。
そして、
黙ってうなずいた。
「私、
あの時、
死ねば楽になると思ったんです。
死んだら、
何もかも終わる。
何もかも……
なくなる。
もともと、
生まれてこなかったと思えばいいだけのこと。
そう思っていました。
でも、
あの出来事のあと、
神様を信じるようになって、
大きな間違いだったことに気づきました。
聖書には、
死後の裁きや、
天国、
地獄のことが書かれていました。
カールが止めてくれなかったら、
取り返しのつかないことになっていたかもしれない。
今思えば、
本当に恐ろしいことです」
看護師さんは、
黙ったまま、
彼女を見ていた。
彼女は、
話を続けた。
「二度と、
あんなことはしません。
私、
神様を信じるまで、
誰かに愛されたって、
心から感じたことがなかったように思うんです。
特に、
家族からは、
ずっとひどい扱いを受けてきました。
子どもの頃から、
ずっとです。
なんで、
こんな家に生まれてきたんだろうって、
何度も思いました。
心がまっすぐ育つはずがないって、
そんなふうに思っていました。
私も、
あの老人のように、
神様を憎んでいたのかもしれません」
彼女は、
少しだけ息をついた。
「でも、
あの屋上で、
カールが私の左足のくるぶしに噛みついた時、
柵をまたいだまま下を見ると、
カールの顔が見えたんです。
私のくるぶしに噛みついて、
必死な顔をしていました。
あの顔は、
今でも忘れられません。
絶対に離さないって、
カールが言っているように思えました。
その時、
カールの向こうに、
何かがいるような気がしたんです。
その時は、
それが何なのか分かりませんでした。
でも、
確かに感じたんです。
生まれて初めて、
愛というものに触れたような、
不思議な感覚でした」
彼女は、
自分の手を見つめた。
「私、
誰かに愛されたっていう実感が、
ほとんどなかったから、
どう受け取ればいいのか分からなかったんです。
でも、
あの時、
自分はずっと、
優しさに飢えていたんだって、
初めて気づいたような気がしました。
ずっと、
愛なんていらないって思って生きてきたのに……。
カールを通して、
優しさに触れたんです。
もしかしたら、
自分を愛してくれている存在が、
いるのかもしれないって、
初めて思えたんです」
突然始まった、
彼女の告白だった。
ここで何かを話そうと、
あらかじめ準備していたようには見えなかった。
心の奥にあったものが、
そのままあふれ出しているようだった。
その言葉は、
私の心にも響いていた。
看護師さんは、
空になったコップを、
何度も口元へ運ぼうとしていた。
彼女の言葉は、
まだ止まらなかった。
「どうして、
こんなひどいことが起こるんだろう。
神様は、
どうして黙っているんだろう。
そう思うのは、
自然なことだと思います。
私も、
そう思ったことがあります。
でも今は、
全部を見ている存在が、
確かにいるように思うんです。
私は、
それを信じています。
看護師さんは、
娘さんのこともあるし、
ご主人のこともあって……」
そこまで話すと、
彼女は突然、
黙り込んだ。
下を向いたまま、
何も言わない。
看護師さんも、
何も言わなかった。
私は、
静かに席を立った。
ウェイターのところまで行き、
「お水、
お願いします」
とだけ言った。
そしてそのまま、
中庭にいる、
ももとカールのところへ向かった。
カフェから見える場所なので、
問題はない。
どうして席を立ったのか、
自分でもよく分からなかった。
ただ、
看護師さんと彼女、
二人の過去の痛みに、
今の私が言葉を挟んではいけないような気がした。




