第175話 天のふるさと
私の短い祈りが終わった。
私は、
看護師さんに聞いてみた。
「その表紙の、
『ふるさと』って、
看護師さんが自分で書いたんですか?」
「そうよ。
私が書いたよ。
なんで?」
「いえ、
ただ……
どうして『ふるさと』なのかなって、
思ったんです」
私は、
ファイルの表紙を見つめた。
「私、
あの『ふるさと』っていう歌、
本当に好きなんです。
『志を果たして、
いつの日にか
帰らん』
っていうところ……」
少し考えてから、
続けた。
「私、
神様の子どもになってから思うんです。
今の私にとって、
『ふるさと』は、
生まれ故郷だけじゃなくて、
天国のことにも思えるんです。
『いつの日にか帰らん』
本当に帰るところは、
天のふるさとなのかなって」
看護師さんは、
何も言わずに聞いていた。
「神様がいるのなら、
どうしてこんな残酷なことが起こるんだろう。
私も、
そう思います。
今でも、
分からないです」
私は、
ゆっくり言葉を探した。
「でも……
少なくとも、
自分のことだけを考えると、
もし毎日が幸せで、
何の苦しみもなくて、
何も困ることがなかったら、
私は神様を求めなかったような気がするんです。
神様なんていらないって、
思っていたかもしれない。
苦しかったからこそ、
帰る場所があるっていうことを、
考えるようになったのかもしれません。
だから今の私は、
『ふるさと』という言葉を聞くと、
天国を思うんです」
看護師さんは、
静かに考えているようだった。
すると、
彼女が話し始めた。
「私も、
嫌なことばかりの人生だったって、
ずっと思ってました。
もういい。
死んでしまいたいって、
本気で思っていました。
あの時は、
本当に飛び降りるつもりでした」
彼女は、
自分の手を見つめた。
「あの屋上の鉄の柵の感触が、
まだこの手に残ってます。
カールが、
左足のくるぶしに噛みついてくれた時の痛みも、
忘れられません。
今は、
あの傷を見るたびに、
神様が私を見捨てないで、
愛してくれた証拠みたいに感じるんです」
看護師さんは、
黙って彼女を見ていた。
「でも、
看護師さんの気持ちも分かります。
どうして神様は、
あんなひどいことが起こるのを許すんだろうって……。
私だって、
分からないです」
彼女は、
少し困ったように笑った。
「私、
昔から行動力があるって言われてきました。
でも、
本当のことを言うと、
考えるのが苦手なんです。
考えて悩み続けるより、
動く方が楽なんです」
私は、
思わず彼女の顔を見た。
「神様のことも、
考えれば全部分かるっていうものじゃないと思うんです。
もし、
深く考えて、
たくさん勉強すれば、
神様のことが全部分かるんだったら、
頭のいい人は、
みんな神様を信じることになるでしょう?
でも、
そうじゃないと思うんです。
分からないことがあっても、
私は信じてみたいんです」
看護師さんの表情が、
少しだけ明るくなった。
「確かに、
あなたたちは、
神様の子どもになったんだね。
なんとなく、
それが分かるよ。
勉強して身につけた知識とは、
明らかに違うものを感じる」
それから三人は、
しばらく黙って朝食を食べた。
窓の向こうでは、
ももとカールが、
中庭で過ごしている。
彼女が、
沈黙を破った。
「娘さんに会いに行く時、
私たちが一緒に行かない方がいいなら、
そうします。
でも、
一緒に行ってもいいなら、
連れていってください」
私も、
うなずいた。
看護師さんは、
少し笑った。
「ありがとう。
実は、
お願いしようと思ってたところなの。
でも、
最初は親子二人だけで話したい。
そのあと、
あなたたちだけで、
娘と話してもらいたいの。
何でも、
娘の話を聞いてあげて。
そうしてもらえたら、
私は嬉しい」
カフェの窓から、
やわらかな朝日が差し込んできた。
ふと、
中庭を見る。
カールしかいない。
「あれ……」
また、
ももがいなくなっていた。
その時、
手術が延期になった女の子が、
車椅子に乗って、
お母さんと一緒に中庭へ入ってくるのが見えた。
私は、
思わず笑ってしまった。
ももには、
悪いけど。




