第172話 みんな弱いから
翌朝、七時半。
ももとカールは、
朝もトイレをすることになっているのか分からなかったが、
とりあえず中庭へ連れていくことにした。
看護師さんがいなくても、
二匹ともいつもと変わらない。
もうすぐ帰ってくることが、
分かっているようだった。
部屋へ戻り、
二匹のご飯を準備する。
といっても、
ドライフードだけなので簡単だ。
午前八時十五分。
突然、
カールの尻尾が大きく振れた。
ドアの前に座り、
いつものように前足をぱたぱたさせている。
私はドアを開け、
廊下を見回した。
誰もいない。
ドアを閉めようとした時、
エレベーターが開いた。
二人が降りてきた。
カールには、
エレベーターの中の気配まで分かるのだろうか。
いつも、
カールの感覚には驚かされる。
二人の足取りは重かった。
特に看護師さんは、
疲労の色が濃い。
私の方から、
詳しく聞くのはやめておこう。
その方がいい。
看護師さんは部屋に入ると、
バッグを床へ置き、
大きく息を吐いた。
「えーっと……」
カールの頭を撫でながら、
看護師さんが言った。
「娘のこと、
二人には心から感謝してる。
ありがとうね。
本当にありがとう」
そう言って、
私を強く抱きしめた。
そして、
彼女のことも同じように抱きしめた。
もう一度、
「ふぅー」
と息を吐いてから、
「お水、
もらえる?
冷たいの」
と言った。
「はい」
彼女が、
「私も」
と言った。
私は冷蔵庫から冷たい水を出し、
コップに注いで、
テーブルへ二つ並べた。
二人は同時に、
冷たい水を美味しそうに飲み干した。
「ふぅー」
「ふぅー」
二人とも、
かなり疲れている。
でも、
その表情の中には、
どこか安らぎが見えた。
看護師さんはその場に座り込み、
両足を伸ばした。
両手を後ろについて、
上半身を支える。
そして、
天井を見上げながら、
小さな声で言った。
「神様は、
なんでも知っているっていうのは、
たぶん本当だ……」
それから、
私を見た。
「もう一杯、
水ちょうだい」
私はすぐに、
もう一杯注いだ。
看護師さんは、
水を受け取ってから、
ゆっくり話し始めた。
「あとで詳しく話すけど、
娘は、
ここの病院へ転院してもらうことにしたの。
娘には、
まだ会ってない。
だから、
娘は何も知らない。
今は、
自分で判断できる状態じゃないみたいだから……。
それから、
今日は院長先生に許可をもらって、
休ませてもらうことにしたの。
少し休んで、
いろいろ考えたいから……」
「もも、
おいで」
彼女が呼ぶと、
ももは嬉しそうに、
彼女の膝の上へ飛び乗った。
彼女は私を見て言った。
「引っ越し、
しなくてもよくなった。
娘さん、
見つかったんだから」
彼女の言葉に、
私は小さくうなずいた。
そして、
看護師さんに言っておきたいことがあった。
「あの……。
娘さん、
私たちと同じくらいの年齢ですよね」
「二十四歳だよ」
「だったら、
同じくらいの年齢だから、
私たちになら話しやすいこともあると思います。
娘さんのこと、
支えていきたいです」
「私も」
彼女も、
同じ気持ちだったようだ。
「DVは、
受けた人にしか分からないことがある。
だから私、
娘さんの力になれると思います」
看護師さんは、
しばらく私たちの顔を見ていた。
そして、
静かに言った。
「あなたたちには、
私がどう見えているか分からない。
でも、
正直に言うよ。
あなたたち二人がいなければ、
私の心は折れていたと思う」
びっくりした。
看護師さんの口から、
そんな言葉を聞くなんて思わなかった。
強い人なんて、
本当はいないのかもしれない。
彼女も驚いたように、
目を丸くしていた。
看護師さんが続けた。
「人間なんて、
みんな弱いから……」
自分の気持ちを、
まっすぐ言葉にする時、
人はこんなにも、
きれいな顔になるのだろうか。
私は、
少し衝撃を受けていた。




