第170話 一人じゃ戦えない
中庭の大きな丸い時計は、
午後七時半を指していた。
彼女がミルクパックの裏に書いた言葉が、
頭に浮かんでくる。
『かいりせいけんぼう
たいじゅう39キロ
せっしょくしょうがい』
私に分かるのは、
摂食障害のつらさだけだ。
いや、
分かった気になってはいけない。
私とは、
受けてきたストレスの種類も、
その重さも違う。
私なんかと比べてはいけないのだと思う。
三十九キロ……。
娘さんは、
どれほどつらかったのだろう。
夫からのDV。
いちばん身近にいて、
守ってくれるはずの人から暴力を受ける。
それは、
どれほど苦しいことなのだろう。
でも、
ここで私がいくら考えても、
答えは出ない。
二人が帰ってきたら、
話を聞かせてもらおう。
でしゃばらず、
今の私にできることをしていきたい。
七時頃から話を始めたとしても、
どんなに早くても九時は過ぎるだろう。
帰りは、
最終電車近くになるかもしれない。
私にできることって、
なんだろう。
祈ること以外に、
何ができるだろう。
看護師さんは、
娘さんが私たちと同じくらいの年齢だと言っていた。
だとすれば、
私たちは話しやすい存在になれるかもしれない。
彼女と二人で、
娘さんを支えていきたい。
でも、
解離性健忘……。
聞いたことのない言葉だった。
看護師さんに、
しっかり教えてもらおう。
何をしてはいけないのか。
どんなことなら、
してあげられるのか。
勝手に判断せず、
看護師さんに教えてもらいながら、
支えていきたい。
以前、
看護師さんから言われたことを思い出した。
私には、
悪い方へ悪い方へと考えてしまう、
心の癖があるらしい。
今また、
本当にそうだと思う。
よく考えれば、
娘さんのことまで、
勝手に悪い方へ考えるのは、
失礼なのかもしれない。
*
「あれっ!」
ももがいない。
カールは、
花壇の縁の下で横になっている。
「カール、
ももは?
もも、どこ?」
カールは、
眠そうな顔をしたまま、
動こうとしない。
金網の近くに、
水道の蛇口がある。
その下には、
少し水がたまるようになっていた。
水を飲みに行ったのだろうか。
そこまで行ってみた。
いない。
中庭を見回す。
どこにも、
ももの姿がない。
もう一度、
カールに言った。
「カール!
ももがいないの。
探してちょうだい!」
思わず、
声を荒らげてしまった。
それでも、
カールは動こうとしない。
体調でも悪いのだろうか。
私は、
だんだん焦ってきた。
中庭には、
花壇が二つある。
向こう側の花壇のそばに、
車椅子に乗った女の子と、
お母さんがいた。
外の空気に触れながら、
夕食を楽しんでいたようだった。
私は、
早足で二人のところへ近づいた。
「すみません。
白い猫、
見ませんでしたか?」
両手で大きさを示しながら、
「これくらいの……」
と言った。
お母さんは、
「見てませんけど……」
と答えた。
「そうですか。
すみません……」
どこに行ったんだろう。
すると、
お母さんが言った。
「あの……。
昼間、
猫と大きな犬が、
この子の病室へ来てくれてたんですけど……。
その猫、
白かったですよ」
えっ。
分かった。
一瞬で、
全部つながった。
「ありがとうございました」
そう言って、
私はカールのところへ戻った。
向こうの花壇から、
いちばん見えにくい場所。
カールが横になっている、
花壇の縁の下。
ももは、
そこにいる。
そんな気がした。
しゃがみ込んで、
カールの体の向こう側を覗いた。
花壇の土台と、
カールのお腹の間から、
ほんの少しだけ、
白い毛が見えていた。
ももだ。
カールが、
ももを隠していた。
さっきの女の子は、
今日、
手術の延期を告げられた子だった。
ももの体を抱きしめ、
白い毛が手に残るほど、
強く握ってしまった女の子。
ももは、
よほど怖かったのだろう。
そして、
カールはそれを分かっていたのかもしれない。
ももを隠すように、
ずっとそこに横になっていた。
胸が熱くなった。
「カール……。
ももを守ってたの?」
カールは、
何も答えない。
当たり前だけど。
でも、
私はそう思えて仕方がなかった。
「もう、
部屋に戻ろう。
私たちも、
ご飯にしよう」
そう言って、
ももの名前を呼んだ。
ももは、
ほふく前進でもするように、
低い姿勢で私の足元までやってきた。
そして、
いきなり私の胸へ飛びついてきた。
私は慌てて、
その小さな体を抱きしめた。
ももの頭を撫でながら、
小さく祈った。
「神様。
もものトラウマになりませんように」
この子たちの中にも、
人間と変わらないような、
怖さや優しさがあるのかもしれない。
また、
この中庭で、
ひとつの小さなドラマを見せてもらった。
ももを抱きかかえる。
この小さくて軽い命にも、
恐れがある。
戦いがある。
もものかわいい後頭部を見ながら、
そっと言った。
「だれだって、
一人じゃ戦えない時があるよね」
カールが、
ももを守ったように。
私も、
看護師さんと娘さんの力になりたい。
心から、
そう思った。
でも、
二人が戻ってきても、
今日はあまり聞かないことにしよう。
看護師さんは、
朝からずっと仕事をして、
そのまま休むこともなく、
つらい話を聞きに行ったのだ。
布団を敷いておこう。
お茶も、
用意しておこう。
今の私にできることは、
たぶん、
そういうことなのだ。




