第167話 ここで祈ってるから
カールのお皿に、
ミルクを注いだ。
看護師さんのように、
「よし」
ではなく、
「どうぞ」
と言ってみた。
よほど喉が渇いていたのだろう。
勢いよく飲み始め、
あっという間に、
お皿が空になった。
どれくらいあげればいいのだろう。
分からない。
でも、
まだ全然足りないという顔をしている。
少し大きめの器に、
もう一度ミルクを注いだ。
「どうぞ」
また、
勢いよく飲み始めた。
ミルクを飲んでいる時の目が、
なんともかわいい。
ももが飲まなかったから、
自分も飲まずにいたなんて。
カールとももの絆が、
微笑ましかった。
カールが飲まない時は、
ももも飲まないのだろうか。
彼女に聞くと、
「ももは、
我慢しないと思うなあ」
と言った。
思わず笑ってしまった。
*
二匹のお皿を片づけていた時だった。
彼女のスマホが鳴った。
画面を見るなり、
「あの奥さんだ」
と言って、
一瞬だけ私の顔を見た。
「もしもし。
あっ、はい……。
はい……。
はい……。
えっ……。
医師から?
解離性健忘……。
あっ、
すみません。
ちょっと待ってください。
メモします」
彼女が、
私に書くものを求める仕草をした。
ボールペンは持っている。
でも、
紙がない。
私は、
空になったミルクのパックを渡した。
彼女はその裏側に、
ひらがなで、
『かいりせいけんぼう
たいじゅう39キロ
せっしょくしょうがい』
と書いた。
スマホを持つ手を替える。
表情が、
少し険しくなった。
「はい……。
それで、
今はどんな状態ですか?
はい……。
はい……。
分かりました。
すぐに伝えます。
この電話番号へ、
こちらからかけるようにします。
はい……。
はい……。
できるだけ早く、
電話するように伝えます。
ご連絡、
ありがとうございました」
電話を切ると、
彼女は私を見た。
「娘さん……。
少し調子よくなってたんだけど、
最近、
記憶がはっきりしなくなってきてるんだって。
ご飯も、
あまり食べられなくなってるみたい。
『解離性健忘』って言ってた。
DVによる強いストレスが、
関係している可能性があるって……」
私は、
言葉が出なかった。
カールが、
こちらをじっと見ている。
耳まで、
こちらへ向いているように見えた。
何かを感じているのだろうか。
彼女が言った。
「看護師さんに、
すぐ電話してもらおう。
今日は五時までだって言ってたよね。
たぶん、
話を聞いたら、
すぐあのマンションのお母さんに会いに行くって言うと思う」
私は聞いた。
「私たちは、
どうする?」
彼女は迷わなかった。
「もちろん行くよ。
できることは、
何でもしたい」
「分かった……。
ももとカールだけで、
お留守番になるから、
今のうちに二匹のご飯を用意しておくね。
五時過ぎに出れば、
七時前には着けると思う」
そう言って、
立ち上がろうとした。
その時だった。
また、
過呼吸が始まりそうな気配がした。
胸の奥が、
ざわざわする。
息が浅くなる。
ご飯を用意しようとしたけれど、
その場に座り込んでしまった。
彼女が、
すぐに気づいた。
「大丈夫?
顔色悪いよ」
私のそばへ来て、
しゃがみ込む。
「今日は、
ここにいた方がいい。
留守番してて」
情けなかった。
こんな時なのに。
私も、
一緒に行きたかった。
でも、
「分かった」
と答えた。
彼女が言った。
「看護師さんと二人で行ってくるから。
大丈夫」
すると、
座り込んでいる私のところへ、
ももとカールが、
そっと近づいてきた。
二匹が、
左右から私を挟むように寄り添う。
ももは、
そのまま私の膝の上へ乗った。
私は片手で、
カールの大きな体を抱いた。
呼吸が、
少しずつ楽になっていく。
やっぱり、
不思議だ。
*
彼女を見る。
なんだか、
たくましく見えた。
「分かった。
しっかり留守番してる。
ここで、
祈ってるから」
それだけ言った。
無理をしないこと。
それが、
今の私がしなければならないことなのだ。
私はまだ、
大きな恐れやつらさが押し寄せると、
うまく受け止めきれないことがある。
でも、
それが今の私なのだ。
恥ずかしがることはない。
彼女が、
優しく笑った。
私も、
小さくうなずいた。
二人で、
同じようにうなずいていた。
ももとカールの絆に、
少しも負けていないような気がした。




