第164話 小さな体で
私の場合、
過呼吸とパニックが重なると、
体全体が地面へ沈み込んでいくように感じる。
少し厄介な症状だ。
息ができなくなり、
そのまま二度と地表へ戻れないような、
恐ろしい感覚に襲われる。
適応障害や、
さまざまな心の病気について調べても、
そんな症状は、
あまり見たことがなかった。
私だけに起こる症状なのかもしれない。
これまで、
誰かに分かってもらえたこともなかった。
どうすることもできない恐怖が、
全身を包んでしまうのだ。
けれど、
そんな時にカールの体へ触れ、
あの太くて温かな体を抱くと、
嘘のように恐怖が消えていく。
カールは、
子どもたちに体を触れられながら、
声の調子や表情、
指先に込められた力まで、
感じ取ってきたのだろうか。
長い間、
さまざまな人に寄り添ううちに、
不安を抱えた人の心を、
身体で感じ取れるようになったのかもしれない。
看護師さんの気持ちも、
よく分かっているように見える。
やはり私は、
あの二匹の背後に、
神様の支えや導きのような、
説明のできない何かを感じていた。
でも、
看護師さんには、
あまり口にしないでおこうと思った。
看護師さんは、
もう十分に感じ取っている。
神様、神様と、
こちらから押しつけたくはなかった。
そんなことをする必要も、
きっとない。
*
喫茶店から部屋へ戻ると、
十一時半だった。
お昼は、
まだ食べられそうにない。
部屋で横になっていると、
ドアを引っかく音がした。
カールだ。
ドアを開けると、
カールが、
「ハア、ハア」
と息を弾ませながら入ってきた。
首から、
小さな籠をぶら下げている。
籠の中には、
タオルが見えた。
その下から、
二つ折りにしたメモが、
少しだけのぞいている。
風で飛ばないように、
タオルを上へ置いたのだろう。
メモを取り出して開く。
看護師さんの字だった。
*
『三時から手術を受ける、
小さな女の子がいます。
その子が、
ももを抱いたまま離そうとしません。
手術が怖いと言って、
泣きながら取り乱しています。
ご両親も、
どうしてよいか分からない様子です。
ももは少し窮屈そうですが、
今のところ落ち着いています。
私たちもそばについて、
苦しくならないように見ています。
少女から無理にももを引き離すことは、
したくありません。
ただ、
ももに少しミルクを飲ませたいので、
冷蔵庫にあるミルクのパックを、
カールの籠へ入れてください。
少女は、
手術への恐怖と戦っています。
不安のあまり、
ももの毛を強く握ってしまうので、
ももが苦しくならないよう、
こちらからそっと手を添えています。
彼女も、
少女の後ろから優しく抱きしめ、
声をかけてくれています。
「怖いよね。
でも、
一人じゃないよ。
神様も、
一緒にいてくださるよ。
先生や看護師さんたちも、
みんなあなたを守るためにいるよ。
元気になったら、
また、ももちゃんと遊ぼうね」
彼女は、
何度も繰り返し、
少女へ語りかけてくれています。
あなたは、
そこにいてゆっくり休んでください。
体の疲れが取れても、
心の疲れには、
慎重でなければいけません。
看護師としての助言です。
いいですね?』
私も、
力になりたかった。
それでも今回は、
素直に看護師さんに従うことにした。
冷蔵庫からミルクのパックを取り出し、
カールの籠へ入れた。
「お願いね」
そう言って背中をなでると、
カールはすぐに部屋を出ていった。
ドアの向こうへ消えていく姿を、
しばらく見送った。
カールとももの周りには、
不思議な出来事と一緒に、
なぜか助けを必要とする人たちが、
集まってくるようだった。
小さな体で頑張っている、
ももの姿が目に浮かんだ。
三時までは、
まだ時間がある。
私は一人、
部屋で静かに祈った。
その時の私は、
あの少女の手術をきっかけに、
周りの人たちの心が、
少しずつ動き始めることを、
まだ知らなかった。




