第163話 月が覗いて
部屋へ戻り、
布団に入った。
彼女は、
まだ眠っている。
穏やかな表情だった。
もう、
うなされませんように。
心の中で祈った。
カールは自分のベッドで、
ももは看護師さんのそばで、
くつろいでいる。
看護師さんが言った。
「電気、消すね」
「はい。
おやすみなさい」
部屋が暗くなると、
カーテンの隙間から、
きれいな満月が見えた。
月のまわりの雲が青白く光り、
黄色い月明かりが、
部屋へ差し込んでいる。
私が月を見ているというより、
月の方が、
カーテンの隙間から私を覗いているように思えた。
『明日のことは、
明日が心配します』
この前知ったばかりの、
聖書の言葉がよみがえる。
神様からというより、
あの満月から言われたような気がした。
しばらく月を見ていると、
看護師さんがすっと立ち上がった。
カーテンを全開にし、
窓も少し開ける。
小さな声で言った。
「真っ暗だと、
ももが怖がるの。
いい?」
「はい。
今日は満月ですよ。
とてもきれいです」
そう言うと、
看護師さんの顔が月明かりに照らされ、
その表情が見えた。
泣いていた。
私は何も聞かず、
もう一度、
「おやすみなさい」
と言って目を閉じた。
神様が守ってくださる。
そう信じた。
カーテンは、
開いたままだった。
月明かりに見守られながら、
今日という日が、
静かに終わっていった。
*
翌朝、
目を覚ますと、
誰もいなかった。
「えっ。
私だけ?」
時計を見る。
十時半を過ぎていた。
びっくりした。
睡眠障害になってから、
こんな時間まで眠ったことはなかった。
よく眠ったという感覚を味わうのは、
何年ぶりだろう。
驚きと喜びが、
一緒に込み上げてきた。
少し、
うれしかった。
今日は看護師さんへ、
昨日の電話の内容を知らせなければならない。
私もまだ、
詳しいことまでは知らない。
けれど、
おおよそのことは想像できていた。
看護師さんは、
もう仕事へ行っているのだろう。
話すのは、
今夜になるはずだ。
私は急いで歯を磨き、
顔を洗った。
彼女とカールとももを探しに、
中庭へ行く。
いない。
屋上へ上がった。
そこにもいない。
どこへ行ったのだろう。
*
部屋へ戻り、
あたりを見回した。
テーブルの下に、
メモが落ちていた。
看護師さんからだった。
『よく眠っていたので、
起こしませんでした。
今日の午前中、
カールとももはお仕事です。
ベッドから動けない子どもたちの部屋を回る、
セラピーの日です。
彼女も一緒です。
一階の喫茶店のモーニングセットのチケットを、
テーブルの上に置いておきます。
起きたら、
ゆっくり過ごしてください。
少し疲れているようですよ。
私たちは、
もう食べました』
セラピーの日?
何をするのだろう。
私も行きたかった。
でも、
仕方がない。
一人で、
モーニングセットを食べに行った。
喫茶店には、
カールとももの写真が、
それぞれのテーブルに貼ってあった。
写真の下には、
『ぼくはカール』
『私の名前は、ももです』
と、
吹き出しが添えられている。
看護師さんが、
一人で書いたのだろう。
カールとももは、
お給料をもらっているわけではない。
看護師さんの給料日に、
あれだけのごちそうが用意されても、
当然なのかもしれない。
昨日は、
カールの食事があまりに豪華で、
少し驚いた。
でも今は、
納得できた。
そして、
あの二匹が何か特別なものを持っているというのも、
本当かもしれないと思った。
私が看護師さんへ、
つらい話をしていた時、
過呼吸になりそうになった。
その時、
カールは私の様子に気づき、
触ってもいいよと言うように、
大きな体を近づけてきた。
カールの、
金色の髪のような毛に触れた瞬間、
私の心は、
凪のように静まっていった。
そうだ。
私があの海岸で、
『休ませてあげます』
という声を聞いた時と、
同じような空気だった。
触れたのは、
カールの体だった。
それなのに、
神様に触れていただいたような気がした。
難しいことは分からない。
でも、
穏やかで優しい風に包まれたように感じたことだけは、
確かだった。
そこは、
パニックとは正反対の場所だった。




