第162話 二匹の存在
その日の夜、
布団に入って横になっていると、
彼女が寝言を言っているようだった。
耳を澄ます。
小さな声が聞こえる。
「やめて……。
やめて……」
彼女は横向きになり、
両手で頭を覆いながら、
何かに懇願するように声を漏らしていた。
胸が締めつけられた。
DVの夢を見て、
うなされているんだ。
看護師さんは目を細め、
彼女をじっと見つめていた。
やはり、
彼女が通ってきた現実は、
生やさしいものではなかったのだ。
誰から暴力を受けていたのか、
私は聞いたことがない。
彼女が話すなら、
どんなことでも聞く。
でも、
私からは触れない。
看護師さんは、
きっと知っている。
痛みを感じながら、
彼女を見つめているようだった。
娘さんのこともある。
そう思うと、
胸が詰まった。
看護師さんが、
小さな声で言った。
「明日になっても、
寝言のことは言わないようにね。
いい?」
「はい。
何も言いません」
「じゃあ、
おやすみなさい。
ももとカールは、
そろそろ起きると思うから、
起きたらトイレに連れていくね。
あなたはもう休んで」
「はい……。
でも、
まだ眠くないみたいです」
まるでタイミングを見計らったように、
カールが起き上がった。
「クーン。
クーン」
「トイレだね」
看護師さんが言った。
その声で、
もももゆっくりと起きてきた。
看護師さんがお皿に水を入れると、
カールは勢いよく飲んだ。
喉が渇いていたのだろう。
その横から、
ももも顔を近づけ、
同じお皿の水を飲み始めた。
「まだ眠くないなら、
一緒に行く?
中庭までだけど」
「行きます」
看護師さんは、
ももとカールを連れて中庭へ出た。
二匹を自由にさせる前に、
中庭の隅へ吸水シートを敷く。
その上に、
トイレへ流せるシートを重ねた。
すると二匹とも、
見事にその上で用を足した。
吸水シートはゴミ箱へ。
上のシートだけを、
トイレへ流す。
中庭を汚すこともなく、
ほとんど手間もかからない。
感心してしまった。
中庭から見上げる夜空は、
とても美しかった。
星が、
今にも落ちてきそうだった。
看護師さんが言った。
「ももとカールのことなんだけど……」
*
「この二匹がいなかったら、
メンタルの会も続いていなかったと思う。
いつも、
驚かされるんだよ」
看護師さんは、
中庭を歩く二匹へ目を向けた。
「ももは音に敏感で、
車の音が怖いのは知ってるでしょ。
でもね、
ももが音を聞き分ける力は、
本当にすごいんだよ。
その力で、
患者さんを危険から守ったことが、
何度もあるの」
看護師さんは、
眠っている彼女のいる部屋を見上げた。
「彼女が屋上の柵を越えようとした時も、
そうだったでしょ。
カールが必死に左足のくるぶしに噛みついて、
止めてくれた。
でも、
最初に危険をカールへ知らせたのは、
ももだった。
覚えてる?」
「はい。
覚えています」
「私が不思議に思うのは、
ももが聞き分けているのは、
音だけではないんじゃないかということなの」
「どういうことですか?」
「当たっているかどうかは、
分からないけどね。
危険を感じ取る力のようなものが、
あるんじゃないかと思うの」
看護師さんは、
少し遠くを見るような目をした。
「もものお母さんが車にひかれて、
亡くなった時から、
そう感じるようになった。
いつもは、
ぼんやりしているように見えるけど、
私は何度も助けてもらっているんだよ」
ももは何も知らない顔をして、
カールのそばを歩いている。
「本当にこの二匹は、
なくてはならない、
不思議なパートナーなの」
看護師さんは、
少しためらってから言った。
「笑わないで聞いてね」
「はい」
「この二匹も、
あなたと同じように、
神様の声を聞いたことがあるんじゃないかって、
思う時があるの……」
私は、
あり得ないことではないと思いながら聞いていた。
もちろん、
二匹にどこまで分かっているのかは、
私には分からない。
それでも、
この二匹のそばでは、
不思議なことがよく起こる。




