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第158話 休ませてあげます

看護師さんは、まだ戻ってこない。


すでに四十分ほど経っていた。


店員さんが襖を少し開け、顔をのぞかせた。


「お水でもお持ちしましょうか?」


「あっ、お願いします。


二つください」


カールがうれしそうに尻尾を振っている。


店員さんが笑った。


「今日はパニアを背負っていないんですね」


カールが店員さんのそばへ近づいていく。


店員さんも、カールが好きなのだろう。


カールの喜び方がすごい。


尻尾がちぎれてしまいそうだった。


「お連れさん、お休みですね」


「そうなんです。


一杯しか飲んでいないんですけど……」


「じゃあ、毛布もお持ちしますね。


カール、またあとで」


そう言って、襖を閉めた。


しばらくすると、


水と毛布を持ってきてくれた。


「お母さん、女将さんと外で話し込んでいるようでしたよ」


看護師さんは、


ここでは「お母さん」と呼ばれているんだ。


私は借りた毛布を、


彼女にそっと掛けた。


彼女はまったく動かない。


今日は、


これ以上話が進むことはないだろう。


私は疲れと解放感で、


飲んでもいないのに、


少し酔ったような気分になっていた。


氷が半分ほど溶けた焼酎のグラスを見る。


水で薄めて、


少しだけ飲んでみたくなった。


焼酎を水のグラスへ、


四分の一ほど移した。


ゆっくり口に含んでみる。


さっきとはまったく違った。


これなら飲めそうだと思った。


半分ほど飲んでみる。


何ともない。


けれど、


目の前で眠る彼女を見て、


これ以上飲むのはやめた。


私まで帰れなくなって、


看護師さんに負担をかけたくなかった。


ももは、


彼女に掛けた毛布の後ろから潜り込み、


尻尾だけを外へ出している。


あれ……。


少し酔っている。


視界が、


いつもと違う感じがする。


気分は悪くなかった。


私は少しだけ、


横になってみることにした。


気づくと、


目の前にカールの顔があった。


鼻息がすごい。


眠ってしまったんだ。


どれくらい眠っていたのだろう。


看護師さんは、


まだ戻っていない。


彼女も眠ったままだった。


何とも言えない心地よさがあった。


今日一日の出来事を振り返ってみる。


朝から続いた不安と緊張。


苦しみと、解放。


私にとっては、


彼女についていくだけでも大変だった。


適応障害と診断されてから、


できるだけストレスを感じないように過ごしてきた。


だから、


これほど大きく心が揺れ動いた一日は、


やはり体にこたえた。


けれど、その分、


新しいページを開いたような発見もあった。


心地よい疲れ。


そんな言葉が、


今の自分には合っているような気がした。


私は今日、


看護師さんへ伝えることができた。


少しでも役に立てたことが、


うれしかった。


この個室の中で、


私は静かな高揚感を味わっていた。


ふと、


気になっていたことを思い出す。


さっき看護師さんは、


小さなノートに何かを書いていた。


あれは、


何だったのだろう。


戻ってきたら、


聞いてみたいと思った。


カールが襖の前へ座った。


クークーと、


いつもの声を出している。


看護師さんが戻ってくるんだ。


私は耳を澄ませた。


けれど、


まだ何も聞こえない。


一分ほど経ってから、


襖が開いた。


「ごめん、ごめん。


女将につかまっちゃって」


看護師さんの表情は明るかった。


私は安心した。


「あれ……。


彼女、眠っちゃったの?」


彼女の顔をのぞき込む。


「電話の話は、明日だね。


今日はお風呂へ行けそうにないかな」


「えっ。


私、お風呂を楽しみにしているんです」


「じゃあ、


彼女にはここで休んでもらって、


二人で行こうか。


ももとカールに、


彼女を見ていてもらって」


「はい。


お風呂から戻っても、


まだ眠っていると思います。


飲めないのに、


無理して飲んだから……」


看護師さんが女将さんに事情を伝えると、


女将さんは笑って言った。


「今日はもう閉店だから、


全然構わないよ。


私も片づけをしながら見ているから、


心配しなくていいよ。


ももとカールもいるから安心だね」


*


看護師さんと二人で、


お風呂屋さんへ向かって歩いていた。


「今日は、本当にありがとう。


感謝してる。


うれしかったよ」


看護師さんは、


満足そうな笑顔を見せてくれた。


声まで少し弾んでいるようだった。


つらい話だったはずなのに。


あれほど泣いていたのに。


看護師さんは、


それ以上何も言わなかった。


私たちはしばらく、


黙ったまま歩いた。


私は、


あのメモのことをどうしても聞きたくなった。


「あの……


聞いてもいいですか?」


「何でも聞いて。


何でも話すから」


「今日、


メモを取っておられましたよね。


何を書いていたんですか?


なんだか気になってしまって……」


「ああ、あれ。


気になってたの?」


看護師さんは少し笑った。


「あれは、


『休ませてあげます』


という言葉。


あなたと老人が聞いたという、


神様の声を書いたの」


「えっ……」


思わず聞き返した。


「どうしてですか?」


「どうしてかな。


自分でも、


よく分からない」


看護師さんは、


それだけしか言わなかった。


やがて、


お風呂屋さんの明かりが見えてきた。


隣を歩く看護師さんの横顔は、


どこか幸せそうに見えた。


「ゆっくりしよう」


「はい」


二人で、


のれんをくぐった。

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