第157話 不思議な時間
私はカールから力をもらい、
話を続けた。
「娘さんは警察病院の精神科病棟におられます。
半年前くらいからです。
隣のお母さんのお父様が元刑事だったこともあり、
警察病院への入院を手配してくださいました。
それだけではありません。
娘さんの保証人にもなってくださっています。
現役時代から、たくさんの人の人生を支えてこられた方だそうです。
『規則に従うだけでは、本当に正しい生き方はできない』
そう、よく話しておられたと聞きました。
どうか安心してください。
娘さんは少しずつ落ち着きを取り戻しておられるそうです」
看護師さんの表情に、
少しだけ安堵の色が戻った。
口元をタオルで押さえ、
前かがみにうつむく。
肩が小さく震えていた。
私は話すべきことを、
すべて話した。
看護師さんの強さと弱さを、
同時に見たような気がした。
どんな人だって、
いつも冷静ではいられない。
私は看護師さんを信頼し、
尊敬してきた。
でも今日、
私はこの人を好きになった。
私は看護師さんのそばへ寄り、
押しつぶされそうになっていたももを助け出した。
看護師さんは、
「ああ、
もも。
ごめん、ごめん」
と笑った。
ももは、
看護師さんの膝と胸に挟まれてしまっていたのだ。
そして看護師さんは、
私の手をそっと握り、
「ありがとう。
話してくれて嬉しかったよ」
と言ってくれた。
私の肩に手を置き、
「ちょっと、
ももとカール、
お願いね。
外の空気を吸ってくる」
そう言って、
ゆっくり襖を開けて出て行った。
その後ろ姿を見送りながら、
私は張りつめていた緊張が、
少しずつほどけていくのを感じていた。
ふと見ると、
彼女は学生が居眠りをしているような格好で、
テーブルに上半身を預けている。
焼酎を一杯飲んだだけで、
眠ってしまったのだ。
ももが、
そっと彼女に近づき、
頭をなでるような優しい猫パンチを繰り返す。
彼女は目を覚まさない。
カールも心配そうに、
彼女の顔を見つめている。
「大丈夫。
そのままにしてあげて」
私がそう言うと、
二匹とも分かったように、
静かになった。
さっきの電話の話は、
今日はもう聞けそうにない。
私は自分のグラスを見つめた。
一口だけでも、
味見をしてみよう。
グラスを持ち上げ、
口をつける。
少しだけ口に含んだ。
やっぱり駄目だった。
飲み込めない。
鼻へ抜ける匂いが受けつけない。
何事もなかったような顔で襖を開け、
トイレへ向かった。
その後のことは、
言うまでもない。
個室へ戻ると、
彼女はすでに深い眠りについていた。
私は思う。
きっと彼女とは、
一生の付き合いになる。
本当の友達と呼べる人は、
彼女だけなのかもしれない。
私は一滴も飲んでいない。
だから酔っているはずはない。
それでも、
話すべきことを話せた解放感で、
心は少し軽くなっていた。
そして、
看護師さんも、
ただ苦しいだけではないのかもしれない。
そんな気がした。
根拠はない。
でも、
もし看護師さんが苦しみだけの中にいるなら、
私の心までこんなに軽くなるはずがない。
私たちの心は、
どこかで静かにつながっている。
そんな気がした。
彼女は穏やかな寝息を立てている。
看護師さんは、
まだ戻ってこない。
これからのことは、
すべて神に委ねよう。
それでいい。
不思議なことに、
看護師さんがなかなか帰ってこないことも、
気にならなかった。
もももカールも、
少しも気にしていない。
その部屋には、
時間だけが、
静かに流れていた。
不思議な時間だった。




