第156話 最後まで聞かせてね
私はこれまで、
適応障害と睡眠障害、
それに摂食障害に苦しんできた。
おにぎり一つさえ食べられなかった自分が、
今では信じられない。
空になったすき焼きの鍋を見つめながら、
私は確かな回復の兆しを感じ取っていた。
こんな時なのに、
気づくと自分のことを考えている。
これから始まる緊張と混乱から身を守ろうとして、
心が勝手に働いているのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、
少しだけ落ち着きを取り戻していた。
襖が開いた。
ビールと焼酎のロックが運ばれてくる。
背の低い分厚いグラスの中に、
透明な液体と、
氷山のような大きな氷が一つ入っていた。
これが、
ロックというものなのか。
「ちょっと待ってね」
看護師さんはそう言って、
グラスにビールを注ぎ、一気に飲んだ。
「ふう……」
グラスを置くと、
私たちを見た。
「まず、お礼を言わせてください。
ありがとう。
娘のために動いてくれて。
聞きたくないことも、あったでしょう。
私には言いにくいこともあって、
二人とも心を痛めたんじゃない?
ごめんね」
そう言って、
自分でもう一度ビールを注ぎ、
二杯目も飲み干した。
そして、
「カール、もも。
こっちへおいで。
一緒に聞かせてもらおうね」
と二匹を呼んだ。
カールは、
看護師さんの体に寄り添うように座った。
ももは、
看護師さんの膝の上へ、
ひょいと飛び乗る。
私はできるだけ落ち着いて、
話さなければならない。
感情的になってはいけない。
そう自分に言い聞かせていた。
*
私は少し声を低くして、
ゆっくりと話し始めた。
「今朝、
二人で娘さんのマンションへ行きました。
お隣に住んでいるお母さんが、
とても親切な方で、
娘さんについていろいろ話してくださいました」
看護師さんの顔に、
赤みが差していく。
私の言葉を一つも聞き逃すまいとするように、
じっと見つめていた。
私は続けた。
「あの……
娘さんは今、
精神科病棟に入院されているそうです」
「えっ……。
精神科病棟に……」
看護師さんは息を止めたように見えた。
それでも、
「続けてもらえる?」
と言った。
「はい。
ご主人から、
ひどい暴力を受けておられたそうです。
警察も駆けつけて、
DVの状況を確認したと聞きました。
そのあと、
ご主人は行方が分からなくなっているそうです」
看護師さんの目が、
みるみる赤くなっていく。
私は、
あまりにも単刀直入に話しすぎたのではないかと思った。
でも、
もう途中でやめることはできない。
続けるんだ。
逃げ出すわけにはいかない。
そう自分に言い聞かせた。
看護師さんの声が少し強くなった。
「いいから、続けて。
全部、聞かせて……」
その表情が、
次第に固くなっていく。
涙が、
膝の上にいるももの背中へ落ちた。
私は看護師さんの顔を見られなくなり、
うつむいたまま続けた。
「そのあと、
娘さんが外へ出る姿を、
誰も見なくなったそうです。
お隣のお母さんのお父様が、
元刑事だったんです。
管理人さんから、
一緒に部屋を確認してほしいと頼まれたそうです。
二人で鍵を開けて中へ入ると、
娘さんは、
話すこともできない状態になっておられたそうです。
とてもひどい状態だったと……」
そこまで話すと、
看護師さんの顔を見ることができなくなった。
私は下を向いたまま、
動けなかった。
看護師さんは大きく息を吸い、
静かに、
ふうっと吐いた。
「言いにくいことを言わせちゃって、
ごめんね……」
看護師さんも、
もう耐えきれなくなっていたのだと思う。
笑い声とも、
うめき声ともつかない声が漏れた。
タオルで顔全体を覆い、
声を上げて泣き始めた。
そして、
震える声で言った。
「ちょっとだけ……
休憩させて……」
顔を伏せる。
彼女を見ると、
唇を噛み、
顔を真っ赤にしていた。
看護師さんは焼酎のグラスを手に取り、
何度か喉を鳴らしながら飲み切った。
すると彼女も、
目の前の分厚いグラスを見つめ、
ゆっくり手に取った。
目を閉じて、
口をつける。
一口飲んだ途端、
激しく咳き込んだ。
彼女も、
あまりお酒を飲めないはずだった。
それでも咳き込みながら、
顔を歪め、
最後まで飲み切った。
見たことのない表情になっていた。
私の前に置かれた焼酎には、
まだ手をつけなかった。
すべてを話し終えてから飲もうと決めていた。
お隣のお母さんのご両親が、
娘さんの保証人になってくださっていること。
娘さんが今、
少しずつ落ち着きを取り戻していること。
分かっていることを、
最後まできちんと伝える。
それが私の責任だと思っていた。
看護師さんが再び襖を開け、
店員さんを呼んだ。
タオルで涙を拭き、
いつもの笑顔をつくって言う。
「焼酎のおかわりをください。
ももとカールにも、
ミルクのおかわりをお願いします」
看護師さんの前髪と、
耳にかかった髪が、
汗で濡れていた。
自分の娘が、
話すことさえできなくなるほど、
夫から暴力を受けていた。
今、
その事実を聞かされたのだ。
その痛みは、
私には想像することさえできなかった。
胸が苦しくなってきた。
適応障害で苦しんでいた時のように、
過呼吸が始まりそうな気配がする。
私は怖くなった。
すると突然、
カールが立ち上がった。
私の様子を見ていたのだろうか。
ゆっくり私のそばへ近づいてきた。
そして、
触ってもいいよと言うように、
大きな体を私へ寄せてきた。
カールの柔らかな毛に触れた瞬間、
少しずつ呼吸が戻ってきた。
不思議だった。
私はカールの大きな体を抱きしめ、
その温かさを感じていた。
苦しさが、
少しずつ薄れていく。
本当に不思議だった。
*
若い店員さんが、
ミルクのおかわりを運んできてくれた。
それでもカールは、
私のそばに留まってくれていた。
彼女へ目を向ける。
顔が、
信じられないほど赤くなっている。
電話の内容を、
きちんと話せるのだろうか。
心配になった。
看護師さんが、
私たちを見た。
「ありがとう。
最後まで聞かせてね」
泣き腫らした顔なのに、
不思議なくらい穏やかだった。
私には、
天使のように見えた。




