第155話 三杯のロック
彼女は、ゆっくりスマホを耳に当てた。
「今日は、いろいろありがとうございました」
そう言ったあと、
「はい……
はい……
はい……」
という返事が、しばらく続いた。
ももが、看護師さんの顔を下からのぞき込んでいる。
まん丸な目を、大きく見開いていた。
スマホを持つ彼女の表情は、決して暗くはなかった。
けれど、少し戸惑っているようにも見える。
彼女は上目遣いに、看護師さんを見た。
「母親がここにいることを伝えてみて」
看護師さんが、彼女の耳元で小さく言った。
彼女はそれを伝えようとしたが、
相手の話を遮らないように、口をつぐんだ。
「はい……
はい……
分かりました。
お伝えします。
お電話、ありがとうございます。
はい……」
結局、看護師さんがここにいることは伝えられなかった。
彼女は、今はその必要がないと思ったのかもしれない。
電話の内容は、
保証人になっているご両親が、看護師さんに会いたいと言っている、
ということだった。
あとで分かったことだが、
滞納している家賃や、入院費についても相談したいらしい。
電話を切った彼女の顔が、少し曇っていた。
決して悪い知らせではない。
けれど看護師さんは、娘さんのことをまだ何も知らない。
どこから、どのように話せばいいのか。
彼女の頭の中は、混乱しているようだった。
それに、電話でいきなり家賃や入院費の話が出たことにも、
少し驚いていたのだと思う。
でも、それは当然のことだった。
もしかすると、毎月立て替えてくださっているのかもしれない。
その時、彼女はそう思ったようだった。
電話の内容は、
私にも看護師さんにも分からなかった。
それでも、彼女の困惑した顔を見ていると、
私まで胸が苦しくなった。
看護師さんへ伝えなければならないことを整理し、
順序立てて話す。
今の私たちには、
少し荷が重すぎるように思えた。
看護師さんが言った。
「ごめんね。
しんどい思いをさせてしまって……」
「そんなことないです」
彼女が慌てて答えた。
私は、その言葉に割って入るように言った。
「お風呂へ行く前に、
ここでお話しさせてください」
自分の口から出た言葉に、
自分で驚いた。
何でも後回しにしたがる私の言葉とは思えなかった。
考えを正しく整理し、
順序立てて話すことの重さに、
耐えられなくなったのかもしれない。
ただ早く話して、
楽になりたかっただけなのかもしれない。
私は彼女を見た。
「私が話す。
そのあと、電話の内容だけ、あなたが話して」
彼女は、
私を見直したような表情でうなずいた。
すると看護師さんは、ふすまを開けて店員さんを呼んだ。
「ビールを二本。
それから、焼酎をロックでお願いします」
そう注文してから、
私たちの方を見た。
「あなたたち、あまり飲まないなら、
デザートでも頼んでちょうだい。
ゆっくり聞きたいから」
落ち着いた声だった。
私はアルコールのことを、ほとんど知らない。
「ロックで、ってどういう意味ですか?」
なぜかそこが引っかかって、
思わず尋ねた。
看護師さんが優しく微笑んだ。
「水や炭酸では割らずに、
氷だけを入れて飲むことよ」
私は焼酎を飲んだこともなかった。
それなのに、言ってしまった。
「私も同じものをください」
すると彼女まで、
「私もお願いします」
と言った。
看護師さんは眉を上げた。
「焼酎を……?
分かった。
無理に飲まなくていいからね。
残ったら、私が飲むから」
三人分の焼酎が、
ロックで注文された。
看護師さんは、胸に抱いていたももを見つめた。
「もも、ありがとね。
ミルクとデザート、いただいといで」
そう言って、
ももをゆっくり床へ下ろしてあげた。
「ミャー」
ももの声を初めて聞いた。
思っていたより、
かわいい声だった。
私の覚悟は決まった。
『神様。
いらないことまで言わないように、
助けてください』
心が勝手に、
そう祈っている。
指先が少し震えていた。




