16 太陽
「ごめんなさい...いきなり原爆の話で...
びっくりさせてしまいました。
あなたの心の状態に合わせてお伝えしていかなければならないのに...
今日は戦争の話は控えますね。」
私の状態をそんなに詳しく話していないのに、理解してくれている...
これが実践的な洞察力というものだろう。
「その代わりに私がここでハーモニカを吹きながら、夕陽を見つめている時、いつも思うことをお話ししましょうね。
あの夕陽は何故ひとつだけなのかといつも思っていました。
変なこと言うなあと思われましたか?
でも、私はいつもその事を考えてきました。
時々、夜遅くまでこの砂浜に何もしないで座って星空を眺めています。
その時はこう思うのです。
何故あの美しい月はひとつだけなんだろうと...
あなたはどう思いますか?」
「あっ、えーっと、あまり考えたことはありませんでした」
「普通はそうですよね。
私は美しい夕陽を眺めていて気がついたのです。
それは、すべての人にとって唯一の夕陽だと言うことです。
太陽はすべての人に生きる力を与えてくれます。
太陽がなければ、すべての命は死んでしまいます。
特別な誰かの為ではありません。
限られた民族の為でもありません。
私が分かったことは、太陽と同じように真理はひとつだということです。
あまり謎めいた回りくどい話は好きではないので、簡単に言いましょうね。
神の話です。
私がここでハーモニカを吹くのは神との会話だと言いましたが、他によい言い方が見つかりません。
私があの苦しい時代を通して学んだことは神は唯一だということでした。
私は当時、日本人には日本人の神、アメリカ人にはアメリカ人の神がいると思い込んでいました。
そんなことはでたらめな作り話です。
しかし、私が通ってきた時代はまさにその神概念が吹き荒れていました。
人間は怒りや苦しみ、敵対心が燃え上がると、判断力がなくなってしまうのです。
敵の神を呪い、自分の民族の神によりすがります。
日本こそ神の国だと...
必ず神風が吹いてアメリカを叩きのめしてくれると、私は長い間、本気でそう信じ込んでいました。
そのような時代だったのです。
少し戦争の話に戻りましたが、安心してください。恐ろしい話はしませんので...
日本人には日本人の神がいるという神概念は
あの夕陽は日本人のものだと言っているようなものだと気がついたのです。」
老人は夕陽の方に視線を移し、
「今日はこれくらいにしましょうね。」
と書いてマーカーを鞄の上に置いた。
その後思い直したようにもう一度、ホワイトボードとマーカーを手にして、
「あなたが聞いた休ませてあげますという言葉については、私の命が尽きる前にどうしてもお伝えしたいと思っています。
あまり時間はないかも知れないので、どうすればいいのかを考えておきます。
あなたは今、心の休息が必要な時だと医師から言われたということですが、焦らずゆっくり時間をかけて休息して下さい。
私も応援します。
この海岸であなたとこうしてお話しできるのは私の喜びになっています。
あなたに必要なことがお届けできれば、私はもうそれで十分です」
そう書いてマーカーを置いた。
私は老人の話は信頼できると感じていた。
目を見ればわかる。
この病のせいで、人に対して極端に警戒心が強くなっているが、この人の前ではまったく素直でいられる。
あの休ませてあげますという説明できない体験があるからだろうか?
私の想像では、あなたは神の言葉を聞いたのですとおそらく言うのだろう。
話の流れでそれくらいは私にもわかる。
それ以外に考えられない。
しかし、不思議なほど拒否反応はない。
丸め込まれているような感覚は皆無だ。
むしろそうであるなら心から納得できる説明が欲しいと望んでいた。
幻聴のようなものではないという確信がほしい。
でも今はこれ以上何も考えられない。
入ってくる情報量に注意深くありたい。
情報量に注意深くしないと私の場合はすぐ混乱してしまうからだ。
よくわからないが、脳の記憶の部分に問題が出てしまうのかも知れない。
老人は黙って輝く海と夕陽を見ている。
私はまたサラサラした砂の感触に右手を遊ばせながら、仕事をしていた時のことを思い返していた。
私は社内でいつも緊張していた。
ミスをして先輩から怒られることが怖かった。
同僚の迷惑がられる顔が怖かった。
仕事自体は嫌ではなかったけれど...
しかし、それは自分のペースで出来ればの話だ。
完璧主義でもない。
丁寧にやりたい気持ちを無視できないだけだった。
だから他の人から見ればスローに見えていたんだと思う。
怒られると記憶が飛んでしまうほど混乱した。
混乱するのでミスは連発する。
学生の頃は成績は良い方だった。
特に数学は得意で、いつもトップだった。
でも、社会では数学の力などは求められない。
何の役にも立たなかった。
仕事に行くことが怖くなる。
出勤前、駅を降りてカフェでアイスコーヒーを飲んで、自分なりに頭を整理してミスがないように、怒られないように準備していた。
そのあと、大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かす。
そんな毎日だった。
これから始まる1日を思って、出勤前に疲れ果ててしまっていた。
その事を考えると今のこの時間はありがたくてありがたくて泣きそうだった。
私は夕陽がひとつだと言った老人の言葉を味わいながら、光る海とその上に浮かぶ夕陽を体全体で浴びるように眺めた。
その時、老人は自分の体で隠すように、黒い鞄から病院の薬袋を取り出し、そっと2錠水を使わず飲んだ。
袋には苦しくなった時だけ飲んでくださいと書いてあったのが一瞬見えた。
私は気が付かないふりをした。
隠すように飲まれていたからだ。
何も聞かないことにしよう。
そう思った。




