第151話 静かな祈り
マンションを出て、
駅のホームで帰りの電車を待っていた。
彼女が言った。
「こんなに早く娘さんの居場所がわかるとは思わなかったよ」
「ほんと。
私もびっくりした。
あなたの言う通り、考えるより先に行動したことがよかったんだね。
考えているだけじゃ、何も変わらなかったはずだから」
彼女は微笑んだ。
「そうだね。
覚えてる?
第一歩は行動。
そのあと考える。
そして、また行動する。
それを繰り返すの。
だから今から一緒に考えよう。
いい?
お互いに思ったこと、考えていること、
頭の中にあることを全部出してみよう」
「わかった。
やってみよう。
今日一日を振り返っていたら、
私は神様の見えない守りというか、
導きというか……
うまく言えないけど、
それを強く感じたの。
隣には、あんなに優しい味方がいて、
その上の階には、
娘さんの保証人になってくださる人までいる。
偶然とは思えないよ」
「確かに、あなたの言う通りだね。
私もまったく同感」
そう言ったあと、
彼女は少し遠くを見るような目になった。
「銭湯へ行った時、
私の背中のあざを見たでしょ。
私も同じような体験をしているから、
冷静でいるのは本当に大変だった。
でも、その時思ったの。
似ているところはあっても、
違うところもきっとたくさんある。
分かったつもりになってはいけないって。
そう気持ちを切り替えるのは、
簡単じゃなかった」
「そうだったの。
あなた、本当に偉いね。
横で聞いていて、
私は感心していたよ」
彼女が時計を見た。
「電車が来たけど、
もう少しこのベンチで話そう。
缶コーヒーでも飲みながら」
「うん」
二人で自動販売機の前へ行くと、
ペットボトルのアールグレイが並んでいた。
彼女が眉を上げて笑う。
「びっくり。
アールグレイって人気があるんだ」
私は迷わずそれを選んだ。
彼女も同じだった。
一時間前の、
あの部屋へタイムスリップさせてくれるような香りだった。
私は彼女に聞いてみた。
「今日あった出来事、
看護師さんに全部話すべきかな。
今わかっていることを、
そのまま全部……」
彼女はすぐに答えた。
「変に気を回す必要はないと思う。
娘さんがDVを受けていたことも、
精神病棟に入院されていることも、
隠すことじゃない。
わかっていることは、
そのまま話したい。
私が看護師さんの立場なら、
そうしてほしい」
少し間を置いて、
「あなたはどう思う?」
と聞いた。
「わかった。
そうしよう。
さっきまで少し迷っていたけど、
今はそう思う」
*
病院へ戻ると、
夕方五時を少し過ぎていた。
看護師さんは、
まだ仕事中だった。
彼女はノートを開き、
今日一日の出来事を書き留めている。
私は、あることを思っていた。
私たちは神の子どもだ。
それなら、
神の子どもらしく歩みたい。
祈りながら、
神様の導きだけを見つめて歩いていきたい。
それが、
今の私の本当の気持ちだった。
私は短く言った。
「私は神様に祈る」
しっかり祈ってから、
看護師さんに伝えたかった。
娘さんが暴力を受けていたことを聞くのは、
きっとつらい。
だからこそ、
神様が見守ってくださる中で伝えたかった。
私たちはどちらからともなく、
静かに目を閉じた。
無言の祈りだった。
しばらく祈っているうちに、
今日一日の出来事が、
一つひとつ心によみがえってくる。
『これは神様の導きだ』
その思いは、
少しも揺らがなかった。
ゆっくり目を開けると、
目の前に看護師さんが立っていた。
「ひっ!」
思わず変な声が出てしまった。
看護師さんは人差し指を唇に添え、
「静かに」
そう言うように、
優しく微笑んでいた。
隣では、
彼女がまだ静かに祈り続けていた。




