第150話 次のカード
「あの……それで……」
今度は彼女が質問した。
「お隣のご主人は、今どこにおられるんでしょうか?」
お母さんは少し表情を曇らせた。
「実は……
ご主人は行方不明なんです」
「行方不明?」
「そうなんです。
まったく連絡がつかないんです。
家賃も滞納されているようで、
蒸発した可能性もあるみたいです。
もう見つからないかもしれないと、父は心配しています。
それでも父は、刑事だった頃のつてを頼って、今も探し続けています。
ご主人がいなくなってから、
奥さんはまったく話さなくなってしまわれました」
「話さなくなった……」
思わず声が漏れた。
「食事もきちんと取れなくなったようで……
外へ出ている姿も見かけなくなりました。
ベランダから様子を見ても、
カーテンは閉まったままでした。
管理人さんは、父が元刑事だったことをご存じでした。
それで、一緒に部屋へ来てほしいと頼まれたんです。
二人で鍵を開け、中を確認しました。
父は一目見て、
『入院しかない』
と判断したそうです。
とてもひどい状態だったようです。
父はすぐ、
知り合いの警察病院へ連絡しました。
もう半年前のことになります」
私は思わず尋ねた。
「警察病院って……
普通の病院とどう違うんですか?」
お母さんは優しく教えてくれた。
「一般の病院と、ほとんど変わらないと思います。
ただ、事故や暴力による患者さんの受け入れには、
一般病院より少し慣れているようです」
「そうですか……
わかりました」
彼女は静かに頷いた。
「お話を聞かせてくださって、本当にありがとうございます。
ここまでの経緯や、お父様のお気持ちを大切にしたいと思います。
私たちは勝手に警察病院へ行ったりはしません。
保証人になってくださっているお父様、お母様ともご相談しながら、
一番よいタイミングと方法で動かせていただきます。
お約束します」
彼女の毅然とした態度に、
私は改めて驚かされた。
彼女は続けた。
「看護師さんが管理人さんに娘さんの転居先を尋ねたそうですが、
『知らない』
と言われたそうなんです」
お母さんは少し考えてから答えた。
「おそらく、
ご主人の関係者かもしれないと思われたのでしょう。
ひょっとすると、
父がそう助言したのかもしれません。
もしそうだとしたら、
娘さんの安全を守るためだったのだと思います」
私には、どうしても聞きたいことがあった。
娘さんは今、どうしているのだろう。
それだけは知って帰りたかった。
看護師さんも、
きっと一番知りたいことだ。
そう思っていると、
お母さんの方から話してくださった。
「娘さんは今、
少しずつ落ち着きを取り戻しておられるようです。
私は入院されてからお会いしていませんが、
父と母は保証人になっていますので、
無理のない範囲で面会しているようです。
ただ今でも、
ご主人をひどく怖がっておられるそうです。
父がご主人を探しているのは、
もう奥さんに近づかないと約束してもらうためです。
そして、その上で仕事を紹介したいと思っているようです。
奥さんの『もう会いたくない』という意思は固いそうです」
私は、
娘さんの居場所がわかったことに安堵していた。
しかし、
看護師さんに何と伝えればいいのだろう。
そう思うと胸が苦しくなる。
すると彼女が、
話を切り上げるように言った。
「今日は本当にありがとうございました。
長女さんが風邪で大変な時に、
長い時間お邪魔してしまってすみません。
今日はこれで失礼します。
よろしければ、
連絡先だけ交換していただけますか」
子どもたちの様子を、
お母さんが何度も気にかけていたことを、
私たちは感じていた。
これ以上長居をするべきではない。
彼女も同じことを考えていたのだろう。
それに今日は、
十分すぎるほど大切なお話を聞かせていただいた。
お母さんは微笑んだ。
「もちろんです」
そして少し照れたように言った。
「最後に一つ、お聞きしてもいいですか?」
「はい」
「さっきおっしゃっていた、
『神の子どもたちに任せる』
というのは……?」
隣を見ると、
彼女も真顔でこちらを見ている。
「私もそう聞こえました。
神の子どもって……何?」
笑いをこらえている。
私は思わず苦笑した。
「そんなこと言いました?」
そう言って、とぼけてみせる。
三人とも笑った。
「今度、
ゆっくりお話しさせてください。
少し長い話になると思いますけど……」
「ぜひ、聞かせてください」
午後の静かな光が、
部屋に差し込んでいた。
アールグレイの香りが、
静かに漂っている。
私は、
その香りが好きになっていた。




