第148話 アールグレイの香り
お母さんは寝返りをした長女の様子を見て、
「ちょっと汗をかいているので、着替えさせますね。
少し待っていてください」
と言うと、手際よくパジャマを着替えさせ始めた。
彼女は落ち着きを取り戻した声で、
「どうぞ、ごゆっくり着替えさせてあげてください」
と言った。
そして私に、小さな声でつぶやく。
「確かに神様だ」
「何が?」
そう聞き返すと、
彼女は目を丸くした。
「何がって……」
私たちは少しかみ合わない会話を交わしていた。
着替えを終えても、
お姉ちゃんは気持ちよさそうに眠っている。
「少し熱も下がっていました。
熱があるのに汗をかいていなかったので心配していたんです。
少し安心しました」
そう言って、
嬉しそうな笑顔を見せてくれた。
「よかったですね。本当に」
私はそれだけ言った。
お母さんは微笑み返し、
冷蔵庫から冷たいアールグレイのポットを持ってきてくれた。
「どうぞ」
そう言って、
話を続ける。
「実は、私の父と母は、この上の五〇四号室に住んでいます。
ですから、お隣のことも最初から知っていました。
上の階にも怒鳴り声や、物が壊れる音はしっかり響いていましたから。
ここよりは少し離れていますので、子どもたちが怖がる時は、父と母の部屋へ連れて行って見てもらっていました。
私、父は刑事だったとお話ししましたよね。
現役の頃から、父はよくこう言っていました。
『規則に縛られていては、正しく生きることはできない』
子どもの頃から、父が母に何度もそう話しているのを聞いていました。
誰かをかくまったり、保証人になったり。
そんなこともよくありました。
母は大変だったと思います。
でも、そのことで母も私も生活を脅かされることはありませんでした。
そんな父を私は尊敬しています。
母も、きっと同じ気持ちだと思います。
だから、お隣さんのことも父は黙っていないだろうと思っていました。
父は出過ぎたことをする人では決してありませんでした。
でも、助けを求める人を拒むことも決してありませんでした。
お隣さんのことでは、私も主人も、母も奥さんの味方でした。
私も、それが当然だと思っていました。
でも父は、
『ご主人の力になりたい』
と言ったのです。
私はそれを聞いた時、
本当に驚いて言葉が出ませんでした」
私は戸惑いながら聞いていた。
話があまりにも意外な方向へ進んでいく。
ポットの中のアールグレイは、
午後の光を受け、
赤茶色に静かに輝いていた。
アールグレイという名前を聞いたのも、
飲むのも初めてだった。
どこか異国を思わせる香りが、
少しずつ心を落ち着かせてくれる。
見えない力に導かれている――。
今朝まで想像もしなかった場所で、
私は不思議な時間を過ごしていた。
初めて飲む冷たいアールグレイが、
ゆっくり喉を通っていく。
看護師さんの娘さんのまわりにこんな優しい人たちがいたんだ。
『確かに神様だ』
彼女のその言葉が、
今になって、
ようやく胸へ沁みてきた。




