第147話 重なる痛み
横にいる彼女をちらっと見る。
落ち着いた表情の奥に、
憤りが見えた。
彼女自身が受けてきた出来事と重なっているのだろう。
私は何かを口にするのが怖かった。
的外れなことを言ってしまいそうだった。
自分が経験したことのない苦しみに、
怖気づいていた。
彼女がゆっくりお母さんの方を向いた。
「ちょっと、お伺いしてもいいですか。
お隣の奥さん……
今どこにおられるのか、ご存じなんですか?」
お母さんは静かに頷いた。
「ちょっと複雑なんです……
でも、私が知っていることは、すべてお話しするつもりです。
お約束します。
誤解のないようにお伝えしたいので、
順を追って話そうと思っていたんです……
でも、やっぱり結論からお話しした方がいいですよね……」
そう言うと、
さっきのミルク缶を見つめながら少し考えた。
そして、
「ちょっと待ってください。
すぐ戻ります」
そう言って、
スマホを持ち、
奥の部屋へ静かに入って行った。
「誰かに電話しに行ったよ」
私が言うと、
彼女は
「うん……」
とだけ答えた。
自分でポットからお茶を注ぎ、
一気に飲み干す。
「もう少し飲む?」
そう聞いてくれたので、
「うん。
飲みたい」
と答えた。
ポットの残りを全部飲みたいほど、
喉が渇いていた。
やがて、
お母さんが戻ってきた。
落ち着いた表情だった。
まず二人の子どもの様子を見に行く。
タオルケットをそっと掛け直し、
エアコンのリモコンに目をやった。
それから、
ゆっくり私たちの前に座る。
「父に電話していました。
実は……
お隣の奥さんは今、
私の父と母が少しお世話をさせていただいているんです。
と言っても、
一緒に住んでいるわけではありません。
奥さんは今、
精神病棟に入院されています。
このことをお二人にお話ししてもいいかどうか、
父に確認していました。
父と母は、
手続き上の保証人になっているんです」
「精神病棟……?」
彼女は、
その言葉を自分の胸で受け止めたようだった。
娘さんをかわいそうだと思っているだけではない。
自分が歩いてきた苦しみまで、
重なってしまったのだろう。
私にはそう見えた。
彼女は左手で右手の拳を包み込むように握り、
胸へ押し当てた。
そのまま静かにうつむく。
私も、お母さんも、
黙って見守ることしかできなかった。
やがて、
彼女の大粒の涙が、
ぽたりとテーブルへ落ちた。
私はそっと、
ハンカチを彼女の膝へ置いた。
それしかできなかった。
お母さんは、
「アールグレイの、
ちょっとおいしいお茶があるんです。
飲んでみてください」
そう言って、
冷蔵庫へ向かった。
その後ろ姿も、
涙をぬぐっていた。
奥で眠っていたお姉ちゃんが、
「ふぁー」
と小さく声を漏らし、
寝返りを打つ。
あどけない寝顔だった。
この家には、
平和と安らぎが静かに流れていた。




