第145話 ドアが開いた
カラン……コロン……
「気持ちいい音」
彼女が眩しそうに言った。
私たちはカフェを出る。
道路を渡り、マンションの前に立った。
彼女の表情が少し引き締まる。
「まず、四階を一軒ずつピンポンするよ。
あなたは私の後ろにいるだけでいい。
何も言わなくていいから。いい?」
「う、うん。分かった……」
知らない家のチャイムを押すなんて、
私はしたことがないかもしれない。
私たちはエレベーターに乗り、
四階へ上がった。
彼女が言う。
「401号室から行くよ」
「ピンポーン」
返事はない。
もう一度鳴らす。
「ピンポーン」
やはり返事はなかった。
「次、行くよ」
402号室。
娘さんの隣の部屋だ。
その時、
エレベーターからベビーカーを押した若いお母さんが降りてきた。
私たちの後ろを通り過ぎ、
404号室のドアに鍵を差し込む。
彼女はすぐに会釈をして近づいた。
私も慌てて後を追う。
「突然すみません。
私たち、人を探しているんです」
若いお母さんは少し驚いたように彼女を見た。
新品のようなベビーカーには、
かわいい女の子が座っている。
「お隣の403号室に住んでおられた方を探しています。
半年前まで住んでおられたそうなのですが、
行方が分からないんです。
何かご存じありませんか」
「ちょっと待ってください」
そう言って鍵を開け、
ベビーカーを部屋へ入れた。
一度ドアが閉まる。
優しそうなお母さんだ。
「あの奥さんのお友達ですか?」
「いえ。
私たちは一度も会ったことはありません。
でも、お母さんの知り合いで、
娘さんを探すお手伝いをしています。
連絡が取れなくなって、
とても心配しておられるんです」
するとお母さんは、
「子どもにミルクをあげたいので」
と言って、
部屋へ入ろうとした。
ドアノブに手をかける。
そのまま少し下を向き、
考えているようだった。
そして振り向き、
私たち二人を静かに見つめる。
何かを確かめるような目だった。
しばらくして、
ゆっくりと言った。
「どうぞ、入ってください」
私は思わず彼女の顔を見た。
まさか、
見ず知らずの私たちを家に入れてくれるなんて。
私たちは深く頭を下げた。
胸の奥が熱くなる。
何かが動き始める。
そんな気がした。
「失礼します」
お母さんは笑顔でスリッパを二つ出してくれた。
私は、
この人は何か知っている。
そう思った。
彼女も同じように感じているようだった。
そうでなければ、
私たちを部屋へ招き入れる理由はない。
「どうぞ、ソファーへ。
子どもにミルクを飲ませますね。
少しだけ待ってください」
私は頭を何度も下げながら言った。
「いえ。
突然お伺いしてしまってすみません。
ミルク、ゆっくりどうぞ」
少し恐縮しながら、
彼女と顔を見合わせてソファーに腰を下ろした。
エアコンがついたままだ。
外出するときも、
つけたままにしているんだ。
そう思っていると、
奥の部屋に誰かいるのが見えた。
小学一、二年生くらいの女の子だった。
額には冷却シート。
タオルケットを掛けて眠っている。
「お姉ちゃんの方が風邪で学校を休んでいるんです。
昨夜は一晩中しんどくて泣いていました。
さっき寝たところなので、
少しくらい音を立てても大丈夫です。
絶対に起きませんから、
気にしないでくださいね」
そう言ってくれた。
そして少し照れたように笑う。
「さっきは、
じろじろ見てしまってごめんなさい。
でも……
嘘をついておられないことは、
目を見ればすぐ分かりました」
「いえ。じろじろだなんて......
そんなふうには感じませんでした」
思わず私が答えた。
お母さんは赤ちゃんを抱き上げ、
ベビーベッドから居間のかわいらしいベッドへ寝かせた。
そのまま笑顔で言う。
「私の父は刑事でした。
去年引退しましたけど、
人を見る目だけは受け継いでいるみたいです」
私たちを、
怪しい人間ではないと信じてもらえた。
それが嬉しかった。
私は不覚にも、
少し涙がこぼれた。
彼女が笑う。
悔しくて、
私は彼女の二の腕を少し強いめに肘打ちした。
それを見て、
お母さんも口元を押さえて笑った。
お母さんが振り向き、
ミルクの缶に手を伸ばす。
私は、
ミルクを作るその後ろ姿を見つめていた。
本当に神様はおられるんだ……。
胸の奥で、
そうつぶやいた。
私は彼女を見る。
彼女も静かに瞼を下ろした。




