第143話 見えない道
かわいそうで、見ていられなかった……
その言葉と、
主婦の眉をひそめる表情に、
私は胸が苦しくなった。
胸の奥が、
冷たくなるような怖さを覚えた。
でも、
彼女は違った。
怖さではなく、
怒りを感じているようだった。
私は、
銭湯で見た彼女の背中のあざを思い出していた。
娘さんの痛みを、
自分のことのように感じているのかもしれない。
しかし彼女は、
その怒りを押し込めるように小さく息をつき、
静かな声で尋ねた。
「この人のお母さんが探しているんです。
連絡がつかないんです。
何かご存じでしたら、
教えていただけませんか。
お願いします……」
彼女の真剣な表情を見て、
主婦は小さな声で言った。
「ごめんなさい……
あまり関わりたくないです」
そう言うと、
逃げるように国道の方へ歩いて行った。
彼女は、
その後ろ姿をじっと見つめていた。
「関わりたくない……
どういう意味だろう」
私がつぶやく。
彼女の表情が変わった。
「管理人さんに会ってみよう」
「でも……
看護師さんが、
管理人さんは何も知らないって言ってたよ」
彼女は首を振る。
「分かってる。
でも会ってみたい」
そして、
静かにつぶやいた。
「さっきの人の話、
聞いたでしょ。
管理人さんが、
何も知らないとは思えない」
私は黙って聞いていた。
彼女は続ける。
「転居先は知らないかもしれない。
でも、
何も知らないことはないと思う。
『かわいそうで見ていられなかった』
ってことは、
旦那さんの怒鳴り声とか、
何か異変があったのかもしれない」
少し間を置く。
「そうだとしたら、
管理人さんが、
何も知らないはずがない」
彼女は独り言のようにつぶやいた。
「それに、
『関わりたくない』
そう思わせる何かがあったのかもしれない」
私は黙って聞いていた。
「助けたくても、
手を出せない。
そんな空気があった。
娘さんは……
誰にも助けてもらえなかったのかもしれない」
彼女の唇が、
少し震えていた。
きっと、
自分が歩いてきた道と、
同じ痛みを感じているのだろう。
マンション一階の、
エレベーター横に管理人室があった。
誰もいない。
でも、
連絡先の電話番号が貼ってある。
「電話してみるね」
彼女はスマホを取り出し、
番号を押した。
私は、
ただ後ろで見ているだけだった。
電話はつながらない。
「あとでもう一回かけてみる」
そう言うと、
彼女は急に明るい顔になった。
「ご飯食べよう。
次は考える時間」
そして笑った。
「行動して、
考えて、
また行動する。
賛成したでしょ?」
「うん。
分かった」
その時、
私はふと気づいた。
お腹が空いている感覚が、
少しだけ強くなってきている。
久しぶりに思い出していた。
摂食障害のことを考える時間さえ、
なくなっていた。




