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第135話 小舟がゆく

「ありがとう……」


看護師さんはそれだけ言うと、静かに黙った。


彼女が口を開く。


「約束を守ることは大切です。


でも……


それは約束によると思います」


少し間を置く。


「間違った約束なら、


勇気を出して破るべきです。


このままずっと連絡しないなんて、


やっぱり間違っていると思います」


看護師さんは何も言わない。


彼女は続けた。


「もし私が看護師さんの子どもなら、


絶対に連絡してほしいです。


約束を破ってでも……


連絡してほしいです」


その言葉は、


心の奥からあふれ出たものだった。


言い終えると、


ももを抱きしめたまま、その場に座り込む。


そして小さな声で、


「ももも、そう思うよね」


と囁いた。


私は何か言わなければと思った。


でも、


言葉が見つからなかった。


看護師さんがゆっくり口を開く。


「真剣に考えてみる。


約束する」


彼女は大きく頷いた。


それ以上、その話を続けることはなかった。


看護師さんの穏やかな表情が、


何かを決めたことを教えてくれていた。


彼女は私を見て、


「よく見てて。


こうやるのよ」


と言うと、


胸いっぱいに息を吸い込んだ。


「わぁーーーーっ!


わぁーーーーっ!


わぁーーーーっ!」


夜の海に響き渡るほどの大きな声だった。


ももは目を丸くし、


足をバタバタさせて驚いている。


その姿を見た看護師さんが吹き出した。


私も、


ももの驚いた顔と、


今にも空中を走り出しそうな足の動きがおかしくて、


笑い転げてしまった。


すると今度は、


カールが彼女に負けないくらい大きな遠吠えを始めた。


ももはすっかり放心状態だ。


私は今度こそと思い、


大きく息を吸い込んだ。


人生でいちばん大きな声を出すつもりだった。


「わぁ……わわわ……」


彼女も看護師さんも、


声をあげて笑った。


どうしても大きな声が出せない。


恥ずかしいからじゃない。


本当に、


出し方が分からないのだ。


彼女は笑いながら、


「分かった、分かった。


もういいから」


と言った。


看護師さんもお腹を抱えて笑っている。


夜の海岸で、


何かが弾けたような気がした。


小舟をつないでいたロープが、


音もなくほどけ、


静かに岸を離れていくようだった。

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