第118話 夜空を見上げて
看護師さんは言った。
「前だけ見つめて生きることができたら、どんなに楽だろうって思うの。
過去って簡単には切り離せないから……。
どうしても考えてしまう。
神様がすべてをご存じなら、
どうして主人を止めてくれなかったんだろうって……」
私は思わず口を開いた。
「前に看護師さん、
『できることをできる範囲でやる』
って言っていましたよね」
「うん。
言ったよ。
今もそう思ってる……」
「偉そうなことを言うかもしれません。
でも、今思っていることを話してもいいですか?」
「なに?
聞かせて」
私は少し迷った。
それでも言葉を続ける。
「看護師さんは、
出来ないことまでしようとしているんじゃないかと思うんです」
「どういうこと?」
「ご主人のことです。
どうして命を絶ってしまったのか。
その理由が分からないことが悔しいって言っていました」
「うん……」
「でも、
分からないことを分かろうとしているように見えるんです。
出来ないことをしようとしているように見えるんです。
それは、
『できることをできる範囲でやる』
という看護師さん自身の言葉とは逆のことのように思えて……」
言った瞬間、
私は我に返った。
何を生意気なことを言っているんだろう。
子どももいない。
看護師さんの苦しみなんて、
ほんの少しも分かっていない。
そんな私が何を言っているんだ。
急に恥ずかしくなった。
看護師さんは私を見つめていたが、
やがて静かに視線を空へ向けた。
的外れなことを言ってしまったのかもしれない。
そう思った時だった。
彼女が看護師さんの背中にそっと左手を添えた。
「私もそう思います」
静かな声だった。
「分からないことは分からない。
出来ないことは出来ない。
出来ることをできる範囲でやる。
それでいいと思います」
少し間を置く。
「それに……
私は、ご主人のことは看護師さんのせいじゃないと思います」
看護師さんが顔を上げた。
「事情も何も分かっていないのに、
勝手なことを言っているのかもしれません。
でも、
看護師さんを見ていてそう思うんです」
彼女の目も潤んでいた。
「それに、
お子さんが言った言葉も……」
言葉を探す。
「たとえ本心だったとしても、
私は誤解だったんじゃないかと思います」
看護師さんの頬を涙が伝った。
彼女は続ける。
「私は思ったことをすぐ口にしてしまいます。
行動もしてしまいます。
今まで周りの人を傷つけたこともいっぱいあります」
少し俯いた。
「その時は本当にそう思って言いました。
でも、
後悔していることもいっぱいあります」
そして看護師さんを見た。
「お子さんも、
苦しくて仕方なくて言ってしまったのかもしれません」
声が震える。
「たとえそうじゃなかったとしても……」
大きく息を吸う。
「もう……
苦しむのやめて……」
彼女は泣かなかった。
最後までしっかり言い切った。
看護師さんは何も言わなかった。
ただ、
私たち二人をまとめるように両腕を回し、
強く抱きしめてくれた。
頭を前後に大きく揺らしながら、
力いっぱい抱きしめてくれた。
心からの言葉なら伝わるんだ……
私はそう思った。
静かに空を見上げると、
月は少し移動していた。




