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第116話 月夜のハーモニカ

「いつも持ち歩いているって言ってたよね?」


「うん。


いつも持ってる。


一人の時に練習したいから」


彼女が看護師さんを見る。


「急がないんだから、いいでしょ?」


「聴きたい、聴きたい」


看護師さんが答えた。


彼女はカールを見て言う。


「カールも絶対歌ってくれると思います」


私がポケットから赤いハーモニカを取り出すと、


カールの目の色が変わった。


前足が小さく足踏みしている。


音が好きなのだろう。


私はカールの真ん前に座った。


左には看護師さん。


右には彼女。


もももかごから出てきて、


看護師さんの腕の中にすっぽり収まった。


月夜の海岸。


波の音。


その音が優しい拍手のように聞こえていた。


「じゃ、始めます」


私は波のリズムに合わせるように吹き始めた。


彼女がカールの頭を撫でながら、


小さな声で歌う。


カールも遠吠えで応えてくれた。


前よりずっと大きな声だった。


海岸の端まで届きそうなくらい。


ももは少し驚いた顔で、


カールを見つめている。


私は心を込めて吹いた。


今までで一番うまく吹けている気がした。


聞き慣れた旋律が、


月明かりの海へ流れていく。


彼女の歌声。


カールの遠吠え。


波の音。


すべてが重なり合って、


夜空へ溶けていった。


曲が終わる。


しばらく誰も話さなかった。


看護師さんの目に涙が光っている。


そしてぽつりと言った。


「歌詞、全部覚えてるんだ」


彼女が頷く。


「二番と三番は最近覚えたんです。


知りたくなって」


少し照れながら続けた。


「特に三番が好きなんです」


看護師さんは何も言わなかった。


ただ海を見つめていた。


私は顔を覗き込もうとした。


すると彼女が、


そっと左手を伸ばした。


そして小さく首を横に振る。


聞かないで。


そう言っているようだった。


波の音だけが聞こえる。


長い沈黙だった。


やがて看護師さんは立ち上がった。


「じゃ、帰ろうか」


それだけだった。


ももを抱き上げ、


静かにかごへ入れる。


私たちの方は見なかった。


怒っているわけではない。


でも、


何かに深く心を動かされたことだけは分かった。


私は彼女を見た。


彼女も同じ表情をしていた。


この海岸で、


こんな重たい沈黙が流れたのは初めてだった。


月明かりだけが、


静かに私たちを照らしていた。

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