第115話 夜の海とハーモニカ
この海岸から病院が見えている。
歩いて二十五分くらいの距離だ。
「病院、海が近くていいですね。
いつでも気分転換に来られる。
私、いつか海の近くに住みたいと思っているんです」
私がそう言うと、
「私も。
私も海の近くに住みたいと思ってる」
と彼女が言った。
看護師さんが微笑む。
「その時は言ってちょうだい。
この辺り、知り合いだらけだから」
私たちは顔を見合わせて笑った。
しばらく海を眺めたあと、
看護師さんが言う。
「じゃあ、帰りましょうか」
そう言いながら、
カールにパニアを背負わせる。
すると、ももが当たり前のように左のかごへ飛び込んだ。
帰り道。
看護師さんがぽつりと話し始めた。
「私、前にも言ったけど、
神様の存在は信じているの。
ただ、それが聖書の神様なのかどうかはまだ分からない。
でもね……
あなたたちを見ていると、
そうなのかもしれないって少し思うの」
少し間を置いて続けた。
「あなたたちは、
いろんな神様の中から聖書の神様を選んだってことになるんでしょう?」
彼女は首を横に振った。
「私はそうは思っていません」
迷いのない声だった。
「あの老人のノートに、
夕陽の話があったでしょ」
看護師さんが頷く。
「あの夕陽は日本人の夕陽ですか?
アメリカ人の夕陽ですか?」
看護師さんは少し考えて、
「違うわね」
と答えた。
「夕陽はみんなの夕陽です。
だから神様も同じだと思ったんです」
彼女は夜空を見上げた。
「もし特定の民族だけの神様なら、
本当の神様じゃないって」
静かな声だった。
「私は中学と高校がミッション系だったから、
聖書の授業がありました。
でも、その頃は神様なんて信じていなかったんです」
少し照れたように笑う。
「ただ、
もし神様がいるなら、
世界中の人の神様じゃないとおかしいって、
なんとなく思っていました」
海から吹く風が髪を揺らした。
「だから老人の話も、
不思議なくらい素直に聞けたんです」
そして続ける。
「それに、
唱歌をハーモニカで聞かせてもらった時もそうでした」
私は思わず彼女を見た。
「特に『ふるさと』です。
あの歌を聞いた時、
地上の故郷だけじゃなくて、
帰る場所があるような気がしたんです」
彼女は胸の前で両手を組んだ。
「子どもの頃から何度も聞いていた歌なのに、
初めてでした。
心も体もふわっと浮き上がるような感じがして……」
私は頷いた。
「私も同じでした」
二人がこちらを見る。
「老人のハーモニカを聞いた時、
私も不安と恐れが消えたんです。
あの頃は適応障害の症状がひどかったから、
よく覚えています」
海を見ながら続けた。
「それに……
『休ませてあげます』
という声も聞きました」
少し沈黙が流れる。
「でも、
その体験があったから信じたわけじゃありません」
私は首を振った。
「もし不思議な体験だけを信じるなら、
もっと不思議なものが現れたら、
そっちへ行ってしまいます」
看護師さんが黙って聞いている。
「そうじゃないんです」
私は胸に手を当てた。
「気がついたら、
神様を信じたいと思っていました」
彼女が大きく頷いた。
私も涙が滲んでいることに気づいた。
どうしてなのか分からない。
でも涙が止まらなかった。
その時だった。
彼女が何か思いついたような顔をした。
そして言った。
「今、ハーモニカ持ってるんでしょ。
ここで吹いて……」




