第113話 ふっくらした手
聞こえないくらいの声で看護師さんが言う。
「悔しさの捨て場所……
あるのかもしれない……」
波の音に溶けるような小さな声だった。
「何度も何度も浮かんでくるの。
あの時こうしていたら、
ああ言っていたらって……」
少し海を見る。
「もう一生、
この思いから逃げられないと思ってた」
そして静かに続けた。
「記憶は消えないと思う。
でも……
悔しさは手放せるのかもしれない」
私たちは黙って聞いていた。
「あなた達が信じている神様なら、
受け取ってくれるのかもしれない」
少し間が空く。
「本当にそう思った」
看護師さんは私たちを見た。
「ありがとう。
話してくれて」
「聞かせてもらったこと、
無駄にはしない」
「私のやり方で、
じっくり考えてみる」
「私のやり方?」
彼女が首を傾げる。
「そう。
私のやり方で」
私たちには意味が分からなかった。
看護師さんは夜の海を見つめた。
「こんなに明るい夜の海を見たの、
初めてかもしれない」
その時、
彼女がヘルメットを手に取った。
「そういえば、
ライト使わなかったね」
そう言いながら頭に被る。
そしてスイッチを押した。
ぱっと白い光が飛び出した。
「わぁ!」
彼女が声を上げる。
「すごい!
よく見える!」
光はまっすぐ海岸の先まで伸びていた。
「ほら!
あんな遠くまで見える!」
「懐中電灯と全然違う!
昼間みたい!」
彼女は子どものようにはしゃぎながら海の方へ歩いていく。
カールとももが嬉しそうに後を追う。
光が揺れるたび、
二匹も一緒になって走る。
看護師さんはその様子を見ながら言った。
「前を照らす光か……」
少し俯く。
「私はずっと、
後ろばかり照らしていたのかもしれない」
波の音が静かに繰り返される。
「もう過ぎてしまった場所を……」
「取り返しのつかないところを……」
月明かりが砂浜を白く照らしていた。
「何も見つけられないのに」
看護師さんは遠くを見つめたまま続ける。
「他の人の苦しみに寄り添うことで、
自分の苦しみから目を背けていた気もする」
「逃げていたのかもしれない」
私は何も言えなかった。
言葉が見つからなかった。
看護師さんが黙って私の手を握ってくれた。
少しふっくらした温かい手だった。
その手の奥に、
長い間抱えてきた悔しさが残っている気がした。
看護師さんのさっきの言葉が気になっていた。
『私のやり方で』
確かにそう言っていた。
どういう意味だろう。
何かの決心がともなっていたように感じていた。
看護師さんの手の温もりが、
まだ私の手の中に残っている。
今度は私も、
誰かの力になりたいと思った。




