第111話 遠慮の危うさ
遠くの光るハーネスを見ていると、
動いているようだった。
じっと見つめる。
確かに動いている。
カールが私の方へ向かって歩いてきている。
ももがかごに乗ったままなので、
落ちないようにゆっくり歩いているのだろう。
私を迎えに来てくれたのだ。
近くまで来ると、
ももはかごから飛び出した。
そして真っすぐ私に向かって走ってくる。
ももって本気を出すとこんなに速いんだ。
びっくりした。
ももはジャンプして抱きついてくる。
夜の方が元気なのかもしれない。
私はももを抱き上げ、
カールと一緒に二人のもとへ戻った。
「お待たせしました。
こんな夜遅くまで……
本当にありがとうございました」
私が言うと、
彼女が聞いた。
「早かったね。
防波堤どうだった?
怖くなかった?」
「うん。
でも防波堤の先端までは行かなかった」
「どうして?」
「行くまでにやりたかったことは全部やり切ったから」
看護師さんは何も聞かなかった。
黙って少し涙ぐみ、
ゆっくり拍手をしてくれた。
彼女も一緒に拍手する。
知らない人が見たら意味が分からないだろう。
こんな夜中に拍手しているのだから、
変な人たちに見えたに違いない。
私はもう一度、
二人に向かって深く頭を下げた。
「こんな夜遅くにお付き合いさせてしまって……」
声が詰まった。
私は今まで、
人に迷惑をかけないことばかり考えて生きてきた。
助けてもらうべき時ですら、
「大丈夫です」
と言って我慢してきた。
でも今日、
それだけでは生きていけないことを知った。
二人の拍手が、
それを教えてくれた。
「やり遂げたこと分かるよ。
いい顔してる」
看護師さんがそう言ってくれた。
彼女も両手を上げて背伸びをする。
「私も何だか安心したというか、
すっきりしました」
看護師さんが海を見ながら言った。
「明日は休みだから、
もう少しこの明るい海を見ていたいの。
いいでしょ?」
彼女と私は顔を見合わせた。
「もちろんです。
ねぇ」
彼女が言う。
私も頷いた。
看護師さんが何か言いたそうなのが伝わってくる。
察した彼女が言った。
「何でも聞きますから。
看護師さんは私たちの命の恩人です。
何でも話してください」
看護師さんはしばらく黙っていた。
言葉を探しているようだった。
そして小さな声で話し始めた。
「また主人のことなんだけど……
正直言うと、
お金のことだけであんなことをするとは思えないの」
波の音が静かに聞こえていた。
「他にも何か理由があったんじゃないかって……
それが分からないことが悔しいの」
彼女が迷いながら聞いた。
「どうしてそう思うんですか?」
看護師さんは少し視線を落とした。
「分からない。
ただ、そう感じるだけ……」
そして海の方を見つめる。
「もう、
いくら考えても分かりっこないのに考えてしまうの」
少し間が空いた。
「この悔しさの捨て場所が見つからない」
私たちは黙って聞いていた。
「悲しいとか苦しいとかとは少し違う。
頭の中に残り続けるの」
誰も言葉を返せなかった。
私は足元の砂を指でなぞった。
波の音だけが聞こえている。
彼女も黙り込んでいた。
看護師さんの痛みの深さに、
私たちは簡単な言葉を返すことができなかった。
でも、
聞くことならできる。
今はそれでいい気がした。
何でも話してもらいたかった。
少しでも楽になってもらいたかった。
夜風は相変わらず優しく吹いていた。
月明かりに照らされた海も、
静かに私たちを見守っているようだった。




