第110話 私の決心
カールを先頭に、私たちはゆっくり海岸への道を歩いた。
後ろから見ると、カールのお尻とももの後頭部が楽しそうに会話しているように見える。
夜の風は気持ちよかった。
やがて海が見えてくる。
月明かりが夜の海岸を照らしていた。
砂浜に足が沈む。
夕暮れの海が好きだったが、月に照らされた夜の海も好きになった。
海は真っ暗だと思っていた。
全然違った。
こんなに明るくてびっくりする。
水平線から海岸まで、海面がキラキラと光っていた。
看護師さんが言った。
「私たちはここに座っているからね。
時間は気にしちゃダメだよ。
あなたの思いを聞いて、嬉しかった。
こんなに嬉しいことはないよ。
朝まででも構わないくらい。
あなたの気持ちを知って、仕事の疲れは吹っ飛んだ。
さっ、いってらっしゃい」
彼女は黙って手を振った。
何だか変な感じだった。
私ひとりが防波堤に向かっていくなんて。
その時、ももがかごから飛び出し、私の胸に飛び込んできた。
「だめだよ。もも、こっちおいで」
ももは看護師さんの言うことには絶対服従だ。
しぶしぶ砂浜に降りると、私に向かって
「ニャー」
と言った。
ももが何を思ったのかはわからない。
私はももの頭を撫でて、防波堤の方を見た。
「海に落ちるなよ」
と、彼女が可愛く言った。
私は振り返り、看護師さんと彼女に深くお辞儀をした。
そして何も言わず、防波堤へ向かって歩き出した。
歩きながら考える。
最初に頭に浮かんだのは母のことだった。
私を産んでくれた人。
いつも優しい笑顔で接してくれた。
もちろん父にも感謝している。
でも、母に対する思いは特別だった。
防波堤に着く前に、私は母に謝った。
一度だけだが、電車に飛び込みそうになったこと。
苦しい思いをして産んでもらった。
たくさんの愛情を惜しみなく注いでもらった。
育ててもらった。
なのにその命を軽く扱ってしまったことを、心から謝りたかった。
ここに来るまで、もやもやしていてわからなかった。
でも今はっきりした。
私は母に謝りたかったのだ。
なぜだかわからない。
父には感謝だけだった。
母に心から謝罪したかった。
現実に母を目の前にして言うべきことではない。
そんなことをするべきじゃないことは私でもわかる。
でも、母に聞こえないところで心から謝りたかった。
あの日と同じ潮の匂い。
波の音。
私は声に出した。
「お母さん、あんなことしてごめんなさい。
二度としません。
ごめんなさい。
ごめんなさい」
言葉にすると涙が一気に溢れてきた。
母に連れて行ってもらったデパートの屋上。
遠足の準備を手伝ってくれたこと。
ご飯をよそって、
『はい、どうぞ』
と言ってくれたこと。
何気ない場面が頭に次から次へと浮かんでくる。
風邪をひいてしばらく食べられなかった時、卵とじうどんを作ってくれた。
本当に美味しかった。
幼い頃の記憶が鮮明によみがえる。
私は母を裏切ってしまった。
一瞬だったが、確かに裏切った。
それも一番ひどい裏切りだ。
私には赦されないことのように思えた。
私にできることは、ごめんなさいと言うことだけだった。
何度も何度も繰り返した。
次第にごめんなさいの言葉は小さくなり、最後のごめんなさいは波の音に消えていった。
今日ここへ来たのは、神を信じたことを確認するためでもあった。
二度と自殺をしないと決心するためでもあった。
けれど今夜の私に必要だったのは、母に謝ることだった。
それだけだった。
私は振り返り、みんなのいる海岸へ向かって歩き出した。
少し軽くなった心で、カールの光るハーネスを目印にしながら。
途中で立ち止まり、もう一度だけ防波堤の先端を振り返る。
月明かりに照らされた海は静かだった。
私は小さく呟いた。
「この場所、好きだよ」




