第108 新しい涙
『もういい、死んでしまいたい』
そんなことを考えていた。
父の顔が浮かぶ。
母の顔も浮かぶ。
私は目を閉じた。
もし本当に行動していたら、
二人をどれだけ苦しめていただろう。
これ以上の親不孝はない。
看護師さんの苦悩と涙を目の当たりにして、
そのことが恐ろしいほど分かった。
自分の命は自分のものだ。
どこかでそう思っていた。
その考えが恥ずかしかった。
彼女は涙を拭おうともせず、
看護師さんの肩を抱いている。
彼女がつぶやいた。
「あなたは私の命の恩人です」
私も同じように言いたかった。
でも声にならなかった。
看護師さんが言う。
「ありがとう……。
嬉しい……」
声が詰まっていた。
「二人の神の子どもに囲まれて、
私は本当に幸せです」
看護師さんの頬を涙が伝った。
そして私たちを順番に見た。
「どうしても伝えておきたいことがあるの」
私たちは黙って頷いた。
「自殺も他殺も同じなの。
命を奪うことだから」
その言葉は鋭く私の胸を貫いた。
『もういい』
私はそんな言葉で、
命を軽く扱おうとしていた。
自殺も他殺も同じ。
その言葉が、
くさびのように心の奥へ打ち込まれた。
彼女は看護師さんの肩から手を離し、
両手を膝の上に揃えた。
小さく震えている。
私も彼女も、
取り返しのつかないことをしてしまうところだった。
彼女と目が合った。
お互いの心が共鳴していた。
言葉はいらない。
『もういい』
私はその言葉を、
今ここで葬り去ることを自分に誓った。
*
看護師さんが大きく息を吐いた。
「ふぅーーー。
久しぶりに泣いてしまった」
少し照れたように笑う。
「心の中の風通しが良くなったみたい」
私たちも自然と笑顔になった。
彼女がカールの頭を撫でながら聞く。
「ちょっと聞いてもいいですか?」
「なに?」
「看護師さんにとって楽しみって何ですか?」
少し唐突な質問だった。
たぶん彼女なりの優しさだったのだと思う。
「そうねえ……」
看護師さんは考えた。
「楽しみというか、
心が解放されるのは銭湯かな」
「銭湯?」
「子どもの頃から大好きなの」
今度は私が聞いた。
「他には?」
「カールとももと三人でプロレスすること」
「えっ!?」
「プロレス?」
私たちは同時に聞き返した。
「そう、プロレス」
そう言ってスマホを取り出した。
彼女と一緒に画面を覗き込む。
そして同時に吹き出した。
ももとカールが覆面レスラーになっていた。
「プロレスと言っても、
二人にはそのつもりはないみたいだけどね」
看護師さんが笑う。
「この覆面は全部手作り。
二人の分合わせると二十枚くらいかな」
「二十枚!?」
彼女が目を丸くした。
「全部作ったんですか?」
「うん。
ミシンで縫ったの。
ミシン好きだから」
「へぇー!」
彼女が感心する。
「でも何で覆面レスラーなんですか?」
看護師さんがカールを撫でた。
「病院でね、
カールを怖がる女の子がいたの」
私たちは黙って聞く。
「カールは大きいでしょ。
それだけで怖い子もいるの」
カールは何も知らず、
得意そうに尻尾を振っている。
「その時思いついたの。
可愛い覆面レスラーにしようって」
私たちはまた吹き出した。
「最初は花柄の覆面だった。
本物の花までつけたのよ」
「それで?」
彼女が笑いを堪えながら聞く。
「その女の子、
すごく喜んでくれたの」
看護師さんの顔が優しくなる。
「カールを撫でてくれた。
友達になってくれたの」
少し沈黙した。
「それが嬉しくて、
今度はももにも覆面レスラーになってもらったの」
私たちの笑い声が中庭に響いていた。
「でもももは嫌がるから」
看護師さんが続ける。
「今は帽子みたいなのだけ」
「女の子ですもんね」
彼女が言う。
ももは何も分かっていない顔で毛づくろいをしていた。
カールとももの覆面姿を見て、
私たちは腹筋が痛くなるほど笑った。
こんなに笑ったのは本当に久しぶりだった。
彼女は笑いながら、
ももを抱きしめてキスをしている。
もう看護師さんには見えなかった。
修学旅行の夜に笑い転げている友達みたいだった。
年齢の差なんて消えていた。
私たちは学生のように笑い転げ、
さっきまでとはまったく違う涙を流していた。




