第105話 愛のある世界
彼女がももを抱いたまま言った。
「私、新しく生まれ変わった気がするの。
本当の人生が始まったような気分なの」
彼女の言葉に嘘はないだろう。
本心であることが声の音色で分かる。
人の言葉に励まされることはある。
でも彼女の明るさはそれとは違う。
彼女は本当の自分と出会ったみたいだった。
そうとしか説明がつかない変わりようだ。
看護師さんが言った。
「本当だね。
あなたは確かに生まれ変わったように見える。
あなたの言う通り神はいると私も思う。
聖書の神が神なのかまでは私には分からない。
でも神は存在していると思う」
私はその言葉を聞きながら考えていた。
神がいるかどうかは、
決して証明されない気がする。
証明できることなら、
とっくに証明されているはずだ。
この世界が偶然の産物なのか。
神の創造なのか。
でももう、それはいい。
それは学者たちに任せればいい。
私には難しすぎる。
私は、
愛のない世界に生きたいのか。
愛のある世界に生きたいのか。
それで決めたい。
神のない偶然の世界を受け入れるなら、
愛もまた偶然でしかないことを受け入れなければならない。
そんなのは嫌だった。
私は愛されたい。
そして、
誰かを愛したい。
神からいただく愛で、
私も誰かを愛して生きていきたい。
愛のない世界では、
私は窒息してしまう。
それが私の本心だった。
私は十分考えた。
十分迷った。
もう堂々巡りは終わりでいい。
その時だった。
彼女が小さな声で歌い始めた。
あの老人の好きだった「ふるさと」を。
抱きかかえたももに、
子守歌を歌うような優しい声で。
こころざしを はたして
いつの日にか帰らん
山はあおき 故郷
水は清き 故郷
夜風が吹いていた。
その歌声を聞きながら、
私は気づいた。
何かが静かにほどけていく。
私はもう、
神を拒んでいなかった。
気がつくと、
聖書の神を信じたいと思っていた。
驚くほど自然だった。
力を入れる必要もなかった。
頑張る必要もなかった。
初めて老人のハーモニカを聞いた時のような、
身体がふわりと浮き上がるような感覚があった。
あの
「休ませてあげます」
という言葉も、
今なら素直に受け取れる気がした。
神様からだったのかもしれない。
いや、
きっとそうだったのだと思う。
その言葉は静かに心の底へ沈み、
宝物のようになっていた。
今日という日は、
私にとって特別な日になった。
夜空を見上げる。
雲が流れ、
星が輝いている。
何かを脱ぎ捨てたような清々しさがあった。
神についての知識は、
まだほとんどない。
それでも、
神様を信じたいという心だけは本物だった。
看護師さんが、
カールの顔を両手で挟んで話しかける。
「次は私の番らしいよ。
カール」
私は何も言っていない。
それなのに、
二人には分かっているようだった。
私が、
信じるという線を越えたことを。
彼女の目に涙が浮かんでいる。
街灯のオレンジ色の光を受けて、
その涙は美しく揺れていた。
「あなたも神の子どもになったんだ」
私は心から頷いた。
「うん……」
彼女が微笑む。
「この病院の中庭が、
私たちの新しい故郷になったんだよ。
ここで新しく生まれ変わったんだから」
その時だった。
看護師さんの表情が少し変わった。
前髪を耳にかけながら、
静かに言う。
「あなたがたに、
心からお礼を言いたいの。
助けてもらったのは私の方です。
ありがとう。
本当にありがとう」
突然の言葉だった。
私と彼女は顔を見合わせた。
私たちが、
何をしたというのだろう。
看護師さんは花壇の縁に腰を下ろした。
そしてタオルを顔に当て、
声を殺して泣き始めた。
カールが戸惑ったように、
前足を看護師さんの膝に乗せる。
私も彼女も、
ただ見つめることしかできなかった。
私たちの知らない、
看護師さんの時間がそこにあるようだった。
風が吹いた。
小さな落ち葉が舞い上がる。
さらさらと心地よい音を立てながら、
中庭いっぱいに転がっていった。




