第103話 特権
彼女を見ていて、ひとつ気がついた。
顔の表情が明らかに変わっている。
迷いや後悔のようなものが、もうどこにも見当たらない。
私は聞いてみた。
「神様の愛を信じたって言ったよね。
それで、何が変わったの?」
彼女は少し考えてから答えた。
「承認欲求……かな」
「承認欲求?
なにそれ?」
「簡単に言えば、
褒められたいとか、
すごいと思われたいとか、
認めてほしいとか……
そんな願いのこと」
「その承認欲求がどうしたの?」
「満足したみたい」
「満足?」
「うん。
無くなったんじゃないの。
満足したの」
私は首をかしげた。
「なんか難しいなあ」
彼女は困ったように眉を下げた。
「ごめん。
上手く説明できないかもしれない」
「私を小学一年生だと思って説明してみて。
そしたら少し分かるかもしれない」
「うーん……」
彼女は少し考えていた。
そして花壇を指差した。
「ほら、そこに蟻がいるでしょ」
「うん」
「私ね。
今はあの蟻にも意味があると思うの。
偶然そこにいるんじゃない。
神様が生かしている」
私は彼女の言葉を追いかけていた。
「花もそう。
空もそう。
星もそう。
この世界にあるもの全部。
偶然できたとは思えなくなったの」
「だから?」
彼女は照れたように首を振った。
「そうじゃないね。
ごめん。
私が言いたいのはそこじゃない」
少し考えてから続けた。
「私ね。
ずっと誰かに認めてもらいたかったの」
風が吹いて彼女の髪を揺らした。
「生きていていいよって。
頑張ってるねって。
誰かに言ってほしかった」
私は言葉を挟まなかった。
彼女は静かに続ける。
「でも今は違うの。
神様が私を愛している。
それだけで十分だと思える」
夜空を見上げた。
「不思議だけど、本当にそうなの」
私は少し考えた。
「ふぅーん……
ちょっと分かる気がしてきた」
*
看護師さんは黙って聞いていたが、
そっと手を挙げた。
「私も聞いていい?」
「はい。
もちろんです」
「あなたが神様を信じたというのはよく分かりました。
でも、神の子どもになったというのは、どうして分かるの?」
彼女はすぐに答えた。
「分かるというより、
私はその言葉を知っていたんです」
「言葉?」
「学校で習った聖書のことばです」
そう言って、
静かに口にした。
「しかし、この方を受け入れた人々、
その名を信じた人々には、
神の子どもとされる特権をお与えになった」
私は聞き覚えがあった。
ヨハネの福音書の言葉だ。
彼女は続けた。
「だから私は、
その言葉をそのまま受け取ったんです」
少し恥ずかしそうに視線を落とした。
「神様を信じたなら、
神の子どもとして迎えてもらえたんだって」
私は彼女の顔を見ていた。
その表情には迷いがなかった。
神の子どもとされる特権――
その言葉の意味を、
彼女はもう体験として知っているのかもしれないと思った。
どうしても聞きたくなった。
「特権って言ったけど、
神の子どもとされる特権ってどんなこと?」
「うん」
彼女は少し夜空を見上げた。
「私はね、
もうひとりぼっちじゃないって思えることかな」
その言葉に胸が動いた。
「宇宙のすべてを創った神様が、
私のお父さんなんだって思えるの。
それだけじゃない。
神様の方からも、
『わたしはあなたの父だよ』
って見つめてくれている気がするの」
少し息を吐いた。
「だからもう、
居場所を探さなくていいの」
私は言葉を失った。
彼女はもう、
誰かに認めてもらうために生きていない。
だからあんなにも自由なのだろうか。
看護師さんも、
驚いたような、
嬉しいような表情を浮かべている。
吹き抜けの空に浮かんでいた雲は、
いつの間にか流れ去っていた。
月明かりが静かに中庭へ降り注いでいる。
彼女はその光の中で、
迷子だった頃の面影をもうほとんど残していなかった。




