第100話 中庭の静けさ
彼女が少し申し訳なさそうに言った。
「看護師さんに迷惑かけてないかな……。
お仕事で疲れているはずなのに」
「そうだね。
看護師さんのために何かできることがあったらやりたいね」
「うん。
私もやりたい」
私は少し考えてから言った。
「あの看護師さんのご主人ね……
亡くなったの。
自分で死を選んでしまったんだって」
「えっ……」
彼女の表情が固まった。
「そうだったの……。
だから私たちに、こんなに寄り添ってくれているんだ……」
「うん。
それだけじゃないよ。
お仕事とは別に、メンタルの会もやってる。
ボランティアで」
「そうなんだ……。
すごい人だね……」
私は頷いた。
「いつも、ももとカールを連れて患者さんを励ましてる」
彼女は小さく息を吐いた。
「私、入院したばかりだったから何も知らなかった……」
少し間を置いて私は続ける。
「もものお母さんはね、
ももの目の前で車にはねられて死んじゃったんだ」
彼女が驚いた顔をした。
「だから、ももは車が怖いの。
急ブレーキの音を聞くと震えてしまう。
機械音も苦手になって、
エレベーターにも乗れなくなったんだって」
彼女は胸の前で両手を組んだ。
「そうだったんだ……」
そして小さく呟く。
「ももにも、カールにも何かしてあげたい。
私の命の恩人だから」
「うん。
本当にそうだね」
「かわいそうに……。
私、全然知らなかった」
その時だった。
看護師さんが、ももを抱いて戻ってきた。
「まだ食べてなかったの?
待たなくて良かったのに」
すると突然、
彼女が泣き出した。
「ちゃんと謝ってなくて、ごめんなさい……」
看護師さんが驚く。
「え?」
「いっぱい迷惑かけてしまって……
入院までさせてもらったのに……
あんなことまでしてしまって……」
涙が止まらない。
「本当にごめんなさい……」
私は彼女を見つめていた。
すごいと思った。
思ったらすぐ行動する。
それが彼女だ。
私は何でも後回しにしてしまう。
こんなところまで違うのかと思った。
「あら、あら……どうしたの」
看護師さんは優しく笑って、
泣いている彼女の頭を抱き寄せた。
ももまで目を丸くしている。
看護師さんが私を見る。
「なんか話したな?」
少し笑っている。
私はその瞬間、
ご主人やももの話を勝手にしてしまったことに気づいた。
胸が沈んだ。
すると看護師さんはすぐに察したようだった。
「いいの、いいの」
優しく首を振る。
「知られたくないことなんて、何もないから」
私はほっと息を吐いた。
ふと見ると、
カールはパニアをつけたまま伏せている。
看護師さんがカールの頭を撫でた。
「カール、ありがとう。
重くなかった?」
カールは、
まるで褒められるのを待っていたみたいに、
得意そうに
「はあ、はあ」
と息をした。
「あっ、パニア外してあげて」
私たちは両側のかごを持った。
思ったより重い。
思わず顔を見合わせる。
「重っ!」
彼女が声を上げた。
カールはますます得意そうだ。
私たちは何度も
「ありがとう」
と言いながら、
頭や背中を撫でた。
カールは言葉が分かっているとしか思えない。
目を細め、
満足そうな顔をしていた。
彼女と顔を見合わせる。
同時に何かを共有したような、不思議な感覚があった。
私たちは、
死の間際まで行って引き返してきたという共通点を持っている。
この感覚だけは、
彼女と分かり合える気がした。
私には彼女が必要だ。
そしてきっと、
彼女にも私が必要なのだと思う。
ここまで来ているのに、
私は神に自分を委ねることができないでいる。
私は何を恐れているのだろう。
神の何を拒絶しているのだろう。
分からない。
その時、
彼女が私の肩を軽くぽんぽんと叩いた。
何も言わない。
それなのに、
見透かされている気がした。




