表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
102/128

第99話 パニア

彼女の言った言葉が、頭の中を何度も巡っていた。


――あなたのためなら、なんでもするから。


私は、仕事を辞めて実家へ戻った時のことを思い出していた。


父が、何も言わず封筒を差し出してくれた。


中には二十万円入っていた。


生活費のためだった。


私が頼む前から用意してくれていた。


その時、父は言った。


「お前のためなら、なんでもしてやる。なんでもだ」


同じ言葉だった。


私は彼女のような苦しい人生を生きてきたわけじゃない。


彼女の言う通り、


両親に愛されて育ってきた。


安全な場所から放り出されたこともない。


今思えば、まるでお嬢さんみたいな人生だった。


目の前にいる彼女とは、まったく違う。


この世に味方がひとりもいないと思いながら生きてきた彼女が、


今、こんなにも輝いている。


神を信じ、


神の子とされた喜びに満たされている。


それはきっと、


私の想像を超えた喜びなのだろう。


私は自分の手のひらを見つめていた。


なぜ私は、


「なんでもしてやる」


と言ってくれる人たちに囲まれているのだろう。


恥ずかしくなるほど贅沢な疑問だった。


なぜ彼女には、あんな環境が与えられたのだろう。


なぜ老人は、


怒りの人生を歩かなければならなかったのだろう。


そして二人とも神を信じた。


私は、まだ信じられないままだ。


神を恨んでもおかしくない二人が神の子となり、


ぬるま湯のような人生を歩いてきた私が、


神を拒んでいる。


どういうことなのだろう。


老人は最後の力を振り絞って、


あの長いノートを書き上げてくれた。


彼女は、


私のためなら何でもすると言ってくれた。


看護師さんも、


私の「助けて」を聞いて駆けつけてくれた。


適応障害になってから今までのことを振り返っていた。


私はなぜ、


こんなにも優しい人たちに囲まれているのだろう。


風が気持ちよかった。


夜空を見上げながら、


不思議な気持ちに包まれていた。


「ねえ……ねえ」


「えっ?」


我に返った。


目を下ろすと、


看護師さんとももとカールがいた。


彼女が心配そうに私を見ている。


「大丈夫?」


「何が?」


「急に黙り込んじゃったから。


びっくりした」


「ごめん。


色々考えていたら、周りが見えなくなってたみたい」


看護師さんが笑う。


「もう少し話したいみたいね。


ゆっくりしてていいから。


門限なんてないんだから」


そう言って、ももを抱えながら続けた。


「晩ご飯、簡単なものだけど用意してあるの。


おにぎりと……」


すると彼女が言った。


「みんなでここで食べませんか?


風が気持ちいいし、


私はこの中庭、好きになりました。


誰も来ないし」


「そうしよう、そうしよう。


それがいい」


看護師さんが笑う。


「キャンプみたいにね。


二人はここにいて。


運搬はカールがしてくれるから」


そして、


「カール、今日はここで晩ご飯だよ。


運ぶの手伝ってね」


と言う。


「カールは本当に言葉が分かってるみたい」


私が言うと、


カールは先にドアの前まで行って座った。


看護師さんが笑う。


「ももはここね。


エレベーター乗れないから」


彼女が、


「私が抱いてますから」


と言って、ももを優しく抱き上げた。


花壇の縁に腰掛け、


隣をぽんぽんと叩く。


「座って」


私は隣に座った。


彼女が静かに言う。


「さっきも言ったけど、


私はずっと、


『違う』


って感じながら生きてきたの」


少し夜空を見上げる。


「ここじゃない。


私がいるべき場所はここじゃない。


ずっとそう思ってた」


そして聞く。


「あなた、この感じ分かる?」


「分かる気もするけど……


はっきりとは分からない」


彼女は小さく頷いた。


「だよね」


少し考えるようにしてから続ける。


「私ね、


子どもの頃、


毎晩布団の中で同じ想像をしてたの」


「どんな?」


「お父さんとお母さんがいなくなるの」


私は驚いて彼女を見た。


「悲しい話じゃないの。


私がそれを望んでるの」


彼女は静かだった。


「そして、


子どものいない優しい夫婦が現れて、


私を養子にしてくれるの」


夜風が吹く。


「いつもその想像をしてた。


その時だけ幸せだった」


胸が締めつけられる。


「想像しにくいでしょ」


私は黙っていた。


「でも本当の話」


彼女は少し笑った。


いや、


笑ったというより、


遠い記憶を見つめている顔だった。


「私は神様を信じて、


やっと自分のいるべき場所が分かったの」


胸に手を当てる。


「今はここなんだって分かる」


「場所じゃないよ。


空間でもない」


言葉を探していた。


「優しいお父さんが、


私を大切にしてくれる感じ」


「私はそのお父さんの子どもだから、


何も遠慮しなくていい」


そして小さく笑う。


「うまく言えないなあ」


私は分かる気がしていた。


すると彼女が言った。


「ちゃんと自分の呼吸が楽にできるところ」


その言葉が胸に刺さった。


彼女は続ける。


「神様を信じた今は、


神なんていないと思っていた頃の気持ちが、


もう思い出せないの」


私は黙って聞いていた。


彼女の言葉は、


理屈ではなく体験から出ていた。


だから重みがあった。


     *


ドアが開いた。


看護師さんとカールが戻ってくる。


カールの身体の両側には、


大きなかごがぶら下がっていた。


まるで小さなロバみたいだ。


「これ、パニアっていうの」


看護師さんが言う。


「私が作ったカール専用バッグ」


「カールは力持ちだから、


なんでも運んでくれるの。


本当に助かってる」


かごの中には、


お茶、


コップ、


おにぎり、


おかず、


タオル、


みかん。


いろんなものが詰まっていた。


カールは得意そうに


「はあ、はあ」


と息をしている。


看護師さんが微笑んだ。


「楽しもうね」


ももが彼女の腕の中でもぞもぞ動いた。


「どうしたの?」


床に降ろしてあげると、


ももはそのままドアの前まで歩いて行って座った。


看護師さんが言う。


「ちょっと先に食べててくれる?


すぐ戻るから。


ももがおしっこみたい」


優しい夜風が、


中庭を静かに通り抜けていった。


彼女は両手を後ろで組み、


大きく伸びをするように胸を開いた。


そして気持ちよさそうに夜風を吸い込む。


私はそんな彼女を見つめていた。


神は本当にいるのかもしれない――


そんなことを思っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ