第20倭(中編) 霊奧の試練、呪檻の赤子――絶望と希望の乙女ら
其之壱 「回帰する数理の檻」
一方、宮殿の深層。ヒメとミチヒメ、そして彼女に背負われたカンナは、伏犠が己を捉えてしまった「数理の檻」の門前に辿り着く。射抜く様に一瞥して、ヒメは険しく表情を曇らせる。
「これは……ただの牢獄ではありませぬ。厳しき数理への、募る自責の『優しき想念』を糧として自神を燃やし尽くし、存在自体を喪わさせる呪法……でございます……!」
突如、ヒメの胸元の、ヤチホコから託された八卦の首飾りが煌く。ミチヒメが背負いし真輝銀の剣が輝きと共に変貌していく。白銀の衣に桜色の髪、清冽な泉の如き気勢の瀬尾律が顕現した。
「やはり、この空間でなら私が顕現叶います。我が主の目論見通りです」
ヒメは、首飾りを手に取って撫でる。
『ヒメさん――これは向津日霊女さまより賜った特殊な首飾りです。この先できっと役に立ちます……!』
愛おしそうに首飾りを抱きしめるヒメに、静かにカンナが指し示す。
「御覧なさい。まさに『赤子』に退転しあの子を」
見る間に伏犠は、小さく幼く原初へと還っていき、ついに赤子へと成り果ててしまっている。
「まさか、このままだとさらに『戻る』と言う事?」
ミチヒメは驚愕する。静かに頷くカンナが言うには、「自神の想いの歩み」を削り取られつつあり、最後には「存在の記述」自体が喪われると。
「……助けに行くしかないわね。わたし達が『還される』前に救ってみせる!」
ミチヒメは、檻を見据え拳をみしりと握りしめる。
「この檻は最早『数理の檻』ではありません。管理者権限による最高位の呪法です。おそらく私が檻へ干渉し続けても、刻は限られています。それまでに『あの子』を目覚めさせないとなりません」
カンナは、かつての伏犠のものとはまるで違う禍々しき記述を見据える。彼女の見立てでは、伏犠自神の意識が目覚め、偽りの自責の念を克服すれば自ずとこの「呪いの記述」は解けると言う。
「このまま三人で参りましょう。呪われし檻……それこそが吉となるやもしれませぬ……! 皆の想い重ね合わせ、必ずや彼の檻打ち破り、伏犠殿を助け出してみせましょう」
虹色に瞳を輝かせたヒメの言葉を受け、三人は伏犠囚われし呪法の檻の扉に手をかけた。
其之弐 「霊山の地下最奥、二人待つ四氣王」
刻同じく、霊山へ向かう洞窟の深淵にて。
「かなり奥まで来たわね……!」
金色の長毛棚引く四尾を揺らし、内なる地の氣力にて輝かせた壁面の燐光を燈火に、キクリはヤチホコに先立って女媧の後を追う。しなやかな長身の豊満な肢体が燐光に照らされ、昏き洞窟に妖艶な壁画を描いては駆け下りてゆく。
最後尾、後方を確認しながらヤチホコは追随する。やがて辿り着いた最奥部、一際開けた空洞。目にした瞬間、ヤチホコは思わず息を呑んだ。
「こ、これは……万里の長城……? 違う! なんて途轍もなく巨大な!」
まさに彼が「長城」と見紛うような、途方もない長さの「何か」が伺えた。それは、大地で出来た巨大な蛇……龍の身体であった。
「これこそが妾の本体、『大地之四氣王』の神威之色身体、地の理そのものでございますわ。……さぁ……キクリ、ヤチホコや、覚悟の程はよろしゅうございますか? 誓約に至るには、近こう寄り妾の身体へ触れて下さいまし……」
言い終えると女媧は、吸い込まれる様に横たわりし蛇神へと溶ける様に消え去る。
見つめ合い、同時に頷いたヤチホコとキクリは、女媧の色身体へ手を伸ばす。掌が触れた瞬間、仰け反り鞭打つようにキクリは痙攣する。溢れ出た「禁忌の記録」が莫大な「想い」の奔流となって彼女の掌を徹し流れ込む。
――そこは……幾千万の刻を超えし、キクリの遥かなる「前乃世」の記憶。
かつて、「真理の導き手」が齎した「自由意思」は、遠く地上にて、世界の氣力の理掌る四氣王達までも、「自由なる想い」で動く事を授ける。
その後、九柱に別たれし「大海四氣王」の主神格、「和修吉」の導きで、女媧と出逢ったのが「阿那婆達多」……後の伏犠。
二神の「愛」の結晶、「狐狗狸」は、母の願いで殷の紂王の元へ嫁ぐ。向かう道中で出くわした道化師の言葉を真摯に受け止めてしまう……。
「ヒヒッ! そうだよ、彼の笑顔の為にはこうすると良いのさ」
危うくも甘美な囁きを真に受けた彼女は、絶世の美女「妲己」として、「愛」を以て残虐非道の限りを尽くす。
「いやはやホントに実行するとはねぇ! キミは最高の『使役之霊』だよ。彼の笑顔の裏……凍り付いた恐怖の『想い』を観てごらん? 暇つぶしの愉快な筋書き、楽しませてもらったよ! ヒャハハハ!」
響く狂笑と共に、紂王の笑顔が「仮面」となり剥がれ落ちていく。顕れたのは……激しく首を横に振りすべてを拒む半狂乱の恐怖。瞬間、己が騙され、使役され、翻弄されて行った愚行の数々、その怨嗟の想いが、心を抉り貫いて逝く。
生まれて間もないうら若き女神は……己の行いし所業の凄惨さ、憐れで滑稽な自神に耐えきれず、発狂し堕天する。
暴走し、最早己ではどうにもならぬ破壊の権能が殷の都を蹂躙していく。
岩石柱が地面より建造物を貫くように聳え立ち、大波の如き土石流が石柱諸共都を吞み込んでゆく……。
突如燃え盛る巨大な神威が降臨する。彼女を止め、強制的に「輪を廻らせた」のは……遥か西方の火山より飛来した、強大な「大焔四氣王」。
「総てを滅ぼす紅蓮」故、常に静観しにて鎮座していた彼が、世界の為意を決し顕現した。
彼が放ったのは、まさに総てを滅ぼす紅蓮の奔流、『煉獄の神炎』であった。
「あ、ああ……アタシは……また、誰かを不幸にする為だけに黄泉還ったの……?」
燃え盛る爆炎の中、毛を逆立てて琥珀色の四尾を激しく震わせる。
同色の瞳共々、昏き闇に侵蝕されてゆく。
山野之女王、「狐狗狸」ことキクリは……「使役之霊」と「書き換え」られ、命じられ、翻弄される存在定義を、再び魂に焼き付けられて呪縛されんとしていた。
ジェスターの仕組んだ囁きは、残響となり彼女を書き換えんと蝕み続ける。
「……思い出すがいいさ。オマエは僕の最高傑作の『使役之霊』。 国を乱し、王を拐かし、自分を薪として炎にくべて焼かれて棄てられちゃう。それが『妲己』として『書かれた』オマエの配役なのさ! ヒャハハハ!」
心を顕す様に、キクリは力なく膝を折って腰を落とす。なおも狂笑が残響となり空間中に響き渡る。
「――違います!」
暴力的な贖罪の爆炎の中、力無く崩れ落ちる。
その刻、跪いて項垂れたキクリの背後から、真輝銀の輝きがすべてを許し受け入れる様に包み込む。それは、慈しみを以って懸命に彼女を引き留めようと、その肩を背後から力強く抱きしめるヤチホコであった。
「キクリ姉、そんな管理者の綴りし『過ぎ去りし古びた記述』に惑わされないで! 貴女は……常にミヅチを護り、ヒメ喪いし刻に絶望に伏した僕を、ただただ受け入れ抱擁してくれたじゃないですか! 母なる大地の豊饒の申し子の様に! 自分が何者か? 貴女の胸の内に溢れる『想い』こそが、僕等の『キクリ姉』です!」
共に神炎に焼かれながらも、抱きしめた掌を放さずにヤチホコは叫ぶ。
透明に力強く輝く虚空の光が、キクリを蝕む昏き闇を、強烈な光に中に消し去り祓う。
燃え盛る神炎は過ぎ去りし過去。犯した過ちも過去の罪。
「……能わった『名』と『役目』に振り回されていたのは……アタシ自身の想念だったわ!」
瞬間、燃え盛る炎が消え去る。浮かび上がりし情景もすべて消え去り、元の洞窟へ戻る。
「ありがとうヤチホコ。……アタシ、もうアイツらに踊らされたりしないわ。アタシはキクリ。彼の英雄スサノヲが娘。そして、ミヅチとアンタの姉! 想いのまま、アンタを、ミヅチを、みんなを護り、命を育む本当の『大地』に……アタシ自身が、なってみせるわ!」
途端キクリの全身が煌く。
琥珀色の四尾が、瞳と共に金色へ変わって光を放ち輝きを強めていく。
それは、先ほどまでの単なる強さではない、キクリの想念を顕す、生命達を根底から支え抱く、温かな大地の波動。
キクリは今まさに、「使役之霊」の記述を断ち切り、自己の「想い」で歩み始めた。
女媧が巨大な龍身を横たえて鎮まる。
地面に向かい一条の光が放たれ、芽吹く様に先程の神威乃乙女の女媧が顕れる。
「過去を受け入れ、超え、今の自分の『想い』を愛でし前世の我が娘……。そして、歪み抱え世界を肯定する創世の筆。よろしいですわ、大地の理、汝らに託しましょう」
女媧に呼応するかの様に、莫大な「大地」の氣力が、彼女の色身体から溢れ出して結晶化する。
輝く宝珠は宙を泳ぎ、ヤチホコの左手の封環へと吸い込まれる。
「――成りました! 三つ目、山吹色の『大地』の宝珠です! まさにキクリ姉の様に力強くきれいですね!」
「やったわね……! ふふ、ヤチホコ、やっぱりアンタ、無自覚に乙女を惑わす悪い子……だわ」
キクリは照れ隠しに、ヤチホコの腕に絡まる様に自らの豊満な胸を押し当てる。動揺するヤチホコに対しいたずらっぽく笑う。それは、操られしものではない彼女の真なる想いの顕れ。
「さあ、地上へ戻るわよ。みんな待っているわ! ……もう一柱の母様……ありがとう……だわ!」
三つの宝珠を宿したヤチホコと、自らの存在定義を詠い直霊したキクリ。二人は、随喜の滴流す女媧が奏でし「蘆笙の響き」を受け、仲間の待つ光差す地上へと駆け上がっていった。
其之参 「泥濘の絶望、弱き蛭子の涙」
地上、雒陽の庭園。ジェスター配下の「怠惰」のアケィディアによる攻撃が続く。
「ミケヒコ、火鎮め純粋なる氣力のみで迎え撃つのです。あのミチヒメの様に……!」
浄化の炎を鎮めたオオトシは、白く輝く氣力を纏い斬りかかる。
損傷を受け潜土蛇竜の動きが鈍る。
「成程……! 火よ鎮まれ……、……くっ! オレの紅蓮は鎮まり切らぬ……くそっ! 忌々しき因果め」
諦めてミヅチの護衛と敵の攪乱に専念する。
「……お二人が駄目なのでしたら……ミヅチが参ります! やぁっ 水龍之槍!!」
「地よ……豊饒の水を食め……」
潜土蛇竜は、ミヅチの水を吸収して一層猛り狂う。
「私が斬りし処を目掛け放つのです。参ります……!」
オオトシは、掛け声と共に連撃で潜土蛇竜を斬り結んでいく。
「今です!」
オオトシの掛け声に合わせ再度水龍之槍を放つ。すると、斬り傷に深々と槍が刺さり、潜土蛇竜は動きを止め藻掻き苦しむ。
「はぁ……気怠いわ。さっさと諦めちゃえばいいのに」
アケィディアが宙で指を弾くと、瞬時に潜土蛇竜の傷が治ってしまった。
「その気持ちをまず折るべきなのね……わかったわ……『怠惰之炎』……さぁもう終焉りなさい」
宙に横たわり溜息混じりにアケィディアが放つ炎。それは、受け止めるモノの意欲をそぎ落とす怠惰の「禍々しき想念」の化身。
剣で、槍で受け止める度、諦めろとの囁きが木霊する。
必死に堪えるも、徐々にと蝕まれていく幼きミヅチの魂。
「オオトシおにいさま、ミケヒコさま……ミヅチ……ミヅチじゃ、弱すぎるの……? ヤチホコおにいさまを護る『楯』になれないの……?」
ミヅチは、自分の無力さに戦慄く。無念さを温かい滴に変え、頬を伝わらせ跪いて震える。
彼女の想いを顕すかの様に、あろうことか彼女の身体も揺らめいて崩れはじめる。
「……いいわねそれ。思い出した? キミ、ヤチホコの『妹』と『書き込まれて』いるけど……ホントは生来の不良品。誰かを護る実体なんて、はじめから無いの」
「あ、う……っ……」
「冷たい汚泥に抱かれて……形を成せぬ本性のまま……永久に眠ると良いわ。それこそ……キミに最適な終焉り」
アケィディアが冷笑を浮かべ掌を翳す。
死を顕す黄土色の土砂がミヅチを覆い尽くそうとしたその刻――。
「――下賤なる管理の端女よ、黙るが良い!」
突如、オオトシより出ずる虚空を轟かせる咆哮。それは、彼とは似ても似つかぬ荒ぶる猛々しき声。見る間にオオトシの漆黒の瞳が、燃え盛る紅蓮へと輝きはじめる。
先程ヒメが観た幻像が、巨大な陽炎の様に立ち昇る。
宿りしは――紅蓮虚空を纏う荒ぶる銀髪の武神。
「……我が妹(娘)ミヅチよ、案ずる事はありません(でない)。あなた(其方)の水は……生命を紡ぐ至宝の大海です(なり)……頬を伝うその輝き……私(われ)が大切に受け取りましょう(受け取ろう)……! さぁ、あなたのすべてを注ぎ込むのです(が良い)!」
オオトシは、緋徒乃詩を極限まで高らかに詠い上げる。
祖神顕現させた巨躯で、慈しみを籠めて優しく抱き上げて、ミヅチの頬の滴を掬い取る。今、彼を包むのは、猛りしスサノヲの紅蓮の虚空。それがミヅチの懸命で清浄なる水を、「底知れぬ怒り」と言う名の火を焚べて猛らせ、爆発的に増幅させた。
「水よ! 限界まで極まりて、一斉の穢れを呑み込みし『大海』と成りなさい(成れ)! さぁミヅチ、一緒に詠いましょう(詠おう)。 参ります(いざ参る)! 『沖つ波』!!」
「オオトシおにいさま、そしてスサノヲおとうさま! はい! 『沖つ波』!!」
健気なミヅチの一滴は、見る間に膨れ上がる。
立ち昇りしそれは、天を突かんばかりの巨濤。潜土蛇竜達は、吸い込み切れぬ「潤い」の暴威に弾け飛ぶ。
その清冽な奔流は、スセリ達を捕らえていた「隔離冥界之大地」さえも、内側から爆裂する様に粉砕されてゆく。
其之肆 「絶望を貫く虹彩の陽光」
同刻、絶望の数理の檻。伏犠の自責の想念により巻き起こる「回帰の奔流」に、カンナ、ヒメ、ミチヒメの三柱も晒され、まさに「還され」ようとしていた。
「……くっ、この『波』! わたしたちまで子供にされちゃうわ……! 伏犠さま……!」
「伏犠殿、そなたの所業に誇りをお持ちくだされ。民護らんが為の苦渋の決断でありましょう……!」
「『赤子』よ、そこに貴方の『想い』を籠めて造りし檻でしょう。負けてはなりません。」
徐々に幼く還りつつある中で、ミチヒメ、ヒメ、カンナは伏犠に向かって叫ぶも、全く反応はない。そのうち、赤子だった伏犠が今度は徐々に膨れ上がっていく。
「何? まさかこれは……女媧さまや鏡水顕導神(ヤィ=モ=トーヤ)さま同様の……?」
彼が膨れ上がるさまに呼応して、檻も自動で広がっていく。
「……その通りです。彼もまた鏡水顕導神と同格の龍神。水の盟主の一柱です」
そこに観えるのは……先の女媧同等の巨大さを誇る龍神の王が一柱。その爆発的な氣力が「原点回帰」の権能に変換されて檻の中を暴れまわる。
「い、いや、これじゃ、わたし達も……あか、ちゃんに……!」
纏いし衣と青龍の籠手を遺し、ミチヒメは消え去ってしまった。後に響くのは……声にならない甲高い産声……衣の下の赤子からであった……。
「まずいです! どうにかして彼を目覚めさせないと……!」
焦るカンナに静かにヒメが告げる。
「……これより……ワラワも赤子に……。そして恐らくはその先の『前』まで還ります。ですが、貴女は……『直霊』。一か八かの賭けでございますが……よろしく……お頼み申し……」
カンナは息を呑んですべてを悟り、しかと頷く。
その様を見届けて、ヒメは優しく微笑みながら輝く虹色の宝珠に還ってしまった。
カンナは……ただただその様を見つめ続けていた。自身も前乃世の瀬尾律へと完全に還るも、戦慄く拳を握り締めて静観する。すると、赤子と一つの宝珠がさらに変貌していく。それは彼の根源の女神より別たれし荒魂と調和魂。
「ヒメさん……あなたの想い、ここに顕さんと詠い直霊ます。『緋徒よ……!』」
瀬尾律は、瞬時に緋徒乃詩による管理者権限を展開する。自神を根源たる直霊とし、荒魂と調和魂が引き寄せられるように集まり、激しく周囲を回天し始める。
「我、直霊の伊豆能売、瀬尾律が『模倣再現』願い給う! 荒ぶ神威と和合し調律せん! 『源泉直霊』! 『太陽之神威巫女(ウトゥ=ニン・ディンギル)』!!」
その絶唱は天を超え、輪廻世界を突き抜ける。遥かな虚空、「大いなる真理」より、膨大にして究極の神威之力が最高位の、朱色に輝く金色の法雨となりて降り注ぐ! 瀬尾律はそのすべてを一身に受け入れる。
続けざま、荒魂と化したミチヒメと、調和魂と化したヒメを、己を触媒にして「前乃世の記憶」で詠い直霊する。
三つの魂が重なり合い、一気に境涯を駆け昇昇るのを顕す様に限りなく澄み渡りて輝いてゆく。
それは、万象を観徹する虹色の七弦を湛えた太陽の如き眼差しで見据え、大慈大悲を兼ね備え、朱金の後光を輝かせて顕現した。まさに、六道輪廻の次元を遥か超越した至高の存在。
「な、何だって!? オマエは『根源』の一柱……『ヒルメ』!」
「檻」に組み込まれたジェスターの幻影が、顕れた途方もなく巨大な存在の、声の出処であろう遥か上空を凝視し、恐れ慄いて呆然自失となる。彼女はジェスターを心配そうに、壊れ物でも扱うかの如く静かに尋ねる。
「……六道の内をのたうつ、矮小にて未熟なる魂の赤子や、汝、『覚悟』ならざるその身にて、十地の菩薩たるわたくしに……もしや、抗うおつもりなのでしょうか……?」
怒りも、峻烈な拒絶もなく、清浄な美しい響きを奏でる声。そこにあるのは、春の陽光が訪れ、冬の残雪を溶かし去る様な、絶対的な「自然の摂理」としての静謐さ。
ただそれだけで、ジェスターの存在定義を、因果の理にて根底から消し去ろうとしていく。
「ふざけるな! ここは僕の遊び場だ、オマエの出る幕なんか……!」
「……愚直の極み。『因果』が廻りますわ……」
ヒルメが溜息をつく、ただそれだけで、管理者権限で組み上げられた、難攻不落の「はず」の数理の檻は、絶対的な神威の波に呑み込まれ、薄氷が破砕されるが如く瞬時に崩れ去る。
憐れジェスターの幻影は、断末魔を上げる間もなく光の奔流に呑み込まれて消滅させられた。
事も無げに、彼女は静かに檻の奥へと歩み寄る。そして震えて眠る「数理の赤子」の本来の姿、阿那婆達多の、その巨大な龍身をまさに赤子の様に、慈愛に満ちた両の掌で抱きかかえる。
「阿那婆達多……今は伏犠や……。其方が苦しみしは、管理者達から国を、民を、護らんが為の故とは言え、『言の葉の綴り』にてすべてを治めんとした結果。……よろしいでしょうか、『神呪』とは、『記述』するものでも『組み上げる』ものでもありませぬ。心の内に『想い描き』、即座に『詠い直霊す』事」
彼女は伏犠に向かって微笑む。口伝に出た言葉が瞬時に伏犠の魂へと刻まれていく。それは数理を超えた直感の神呪――『神速呪文』
「言の葉を覚えるのではありません。万象をありのまま、想いて詠い直霊すのです。その『一念三千』こそ、最高最速の言の葉を超えし神呪なのです」
(……想いのままに……この光の導くままに……言の葉に変えず……詠う!)
ヒルメに呼応するかの如く、龍体より朱金の眩い光が溢れ出す。見る間に立派な老成した神威、伏犠の姿へと還ってゆく。その眼にはかつてない覚悟の光。解き明かさんとしていた「原初」とは、言の葉に非ず、「想念」の具現化であった。
「……観えましたぞ! 言の葉ではなく、『想いを詠う』真なる理そのものが、今まさに余の内に……!」
悟りし伏犠。それは、雒陽の都が、国が管理者の支配を脱す為の、最初にして最大の転換点だった。




