第1倭 終焉と新たなる創世
――風は竜巻となりて無を宿し 無より眞なる神威之力生ず――
(レラ ア ヤイカラ ペウプンチセ アン イサム アンペ シ カムイ マゥェ ヘトゥク)
雑多な木々が混在した杜の奥、苔生した山道を掻き分けた先、古の石舞台が誘う昏き咢を見据える。悠久の営みを観じさせる社殿が、澄み渡る静謐さで、ここが「禁足の神域」であると語りかけて来ていた。
たじろぐも意を決し、少年は照明を翳す。
最奥部に浮かぶのは古代の石棺。
その上部の壁面には、金とも石ともつかぬ光沢で、邂逅への歓喜を顕す様に煌いて照り返し、微かな燐光を放つ碑版。
(間違いない――あの、恐ろしい夢の中で観た石版!)
詰襟姿の少年……「竜輝」は、喉を鳴らし生唾を呑み込む。
突如魂の奥底より、意に反して湧き上がる、抗いきれない魅惑の輝きへの渇望。
一歩、また一歩、星の海にて時空の歪みに捉えられた光の如く吸い寄せられてゆく。
竜輝は碑版を前に、久しく離れし想い人との逢瀬の刻の様に、恍惚とした表情で石版を見つめた。
耐え切れず伸ばした指先が、滑らかな表面に触れた瞬間――世界が揺らいだ。
音もなくするりと抜け出し、抱きつく様に手元に納まる。
心地良い冷涼感と大きさに見合わぬ質量を感じた瞬間、鼓動は破裂せんばかりに跳ね上がった。
禁断の文化財であり、ましてや触れる事など許されざる禁忌である。
今彼の魂の奥底より湧き上がる歓喜が、悪夢への恐怖と制する理性の警告を塗りつぶす。
そっと指先で艶めかしくなぞる……耐え切れずに唇を押し当てる。禁忌を犯す事への自覚が、例えようもない恍惚へと、彼の肌に粟を生じさせ、魂の奥底から歓喜の戦慄に震わせる。
(君だ! 君が、僕を呼んでいたんですね! 僕もずっと……っ!)
突然足元に深い亀裂が走り、地面が大きくうねる。
千曳の岩に阻まれる様に、石舞台が轟音を立てて崩落してゆく。
護りの罠か封を解きし故の崩落か。
碑版を赤子のように大切に抱え込み、落下してくる石柱群を間一髪躱し、竜輝は「世界」の継ぎ目へ滑り込んだ。
未だ背後で轟音が鳴り響いている。
土煙が晴れた後、石舞台は変わらぬ姿で静まり返っていた。
ただ一つ、核となる封じられし石版が喪われた事を除いて。
(すみません、調べ終えたら必ず還す……えっ!?)
耳を疑った。しかし確かに聴こえた囁き――『遣え』。
想い描くは、毎晩苛まされていた終末の悪夢。
暴風渦巻く終焉の世界、天高く掲げているのは、碑文まで瓜二つなこの石版……。
(さすがに……恐ろしすぎます。ですが……)
夢の中、手にするは今抱きかかえしこの石版。
刻まれた碑文もまさにそのまま。
さすがの彼も、喜びより罪悪感が勝りそうになる。
だが、積年の想いと、夢ならぬあの映像に対する恐怖と焦燥感が上書きしてゆく。 石版に浮かび上がりし詩片を見据え、空を仰ぎ、大きく息を吐いた。
(『参 神詩の権能目覚めさせ 刻を超え征く妹背達』……「妹」と「背」……しかし、楓ちゃんまで巻き込む訳には!)
そう。これは独りではできない儀式。
あれが真実ならば刻まれた通り、「想い」が具現化した力――すなわち強き『想念』を『二人』で捧げなくば儀は発動しない。
良く解っている。しかし――。
(『あの夢』が真実なら……楓ちゃんを、そして世界を護る為――しなければ!)
許してくれるだろうか?
彼女を護らんが為とは言え、世界を棄てて刻を超えんとする事を。
戦慄の決意を想い描いた瞬間、頭の片隅に過ぎるは……。
部活中、道場での激しい組手、不意に触れた彼女の温もり。
試験勉強に追われた茶房の、安らぐ珈琲の香り。
共に発掘物を見つめ、熱を籠めて語り合った遥かなる憧憬。
それら愛おしき日常のすべてを、自らの掌で握り潰し、過去へと葬り去ろうとしている。
(でもあの部活だって――今みたいな事でも無ければ……!)
想いを籠めて拳を強く握りしめると、鈍く輝きを放つ。
呼応するように掌中の碑版も煌き始める。
「――っ!」
すぐさま己の権能を納める。
すると石版の煌きも程無く元に戻る。
額から冷たい滴が流れ落ちる。
だが……彼の面に浮かび上がる表情は真逆であった。
(僕は……笑っているのか? ――いいえ、しません、今はまだ。……世界が無事な内は)
滲み出た紅の滴を拭い、制服の泥を払う。
予め準備していた厚手の布の袋に二重に石版を仕舞い込み、鞄に入れて歩き始めた。
あれだけの轟音、誰が通報してもおかしくないはず。
だが、気になって戻るも、その様な気配は一切なかった。
思考が霧の中を彷徨う。
崩落したはずの石舞台を確認しに行った後、どうやって家まで還ってきたのか……。
いくら想い廻らせても、霞を掴もうとするかの如く手応えが全く観じられない。 焦燥に駆られ震える手で、最下段の引き出しの奥へと仕舞い込み、厳重に施錠する。
封印法など知るよしもない。
竜輝は、出来る限り目に触れぬよう光の洩れぬようにした。
安堵の想いで背もたれに目一杯寄り掛かり、閉眼して深呼吸する。
だが、忘れようとも、どうしても、「観て」と言わんばかりに視界に入ってきてしまう一冊の本。
「廻る魂と巡る世界の神的叙事詩」
それは、先程石版に浮かび上がった「聖なる詩片」が綴られた、良く鞣された革表紙の分厚い書物。
「くっ、これもどこか目につかない処へ……!」
階段を弾むように駆け上がる足音。まずい。
「おかえり竜輝! 夕食の準備できて……背中のそれ、なぁに?」
心臓を掴まれた様に息が止まる。
恐る恐る見上げ視界に入ったのは……ドアの隙間から片眉をあげ怪訝そうな表情を湛えた、竜輝の姉、楓。
「……なんでもありません、ただの調べ物ですよ」
「……怪しい! 竜輝、何か隠してるでしょ」
彼女は目にも止まらぬ速さで近づき、隠した書物を取り上げる。
「……なぁんだ、竜輝の好きないつものアレね、ん? 良く見ると傷だら――まさかまた!」
「大丈夫、もう調べたい事も終わったし問題ありませんよ」
「ふぅん……ま、そう言う事にしておくわね。はいこれ……あっ」
楓が差し出した途端、本は……彼女の掌をするりと抜け出して宙に留まる。
一拍置いて、古を綴られし紙葉が勢い良く捲れ始める。
突如、観た事もない光景が書物の紙葉から浮かび上がる。
「なぁに? 新手の投影機……? 不思議だけど素敵な処ね」
また何か妙なものを仕入れて来たのかと、楓は映像を眺めている。
「……剣……城……? そして草原、集落……神殿……っ!」
呼応する様に机が激しく身悶え、封印(引き出しの鍵)が強い力で引き千切られ弾け飛ぶ。
厳重に封をしていた分厚い布袋も懐紙の様に引き裂かれ、楓の掌中へと、抱きつく様に吸い寄せられる。
「わぁ……きれい、どんな宝石や金属より――っ! あ! は、離れない!」
『――言の葉を顕したくば……神呪を――』
「っ! 今の声って一体何?」
「……楓ちゃんの事も、選ぶの、か……!」
竜輝は無意識に唇を噛み締める。
『……赦して楓……狭間の流転へと、希望を誘う事を……』
彼女にだけ、声ならぬ、魂に直接響き震わせる様に聴こえた囁き。
直後、石版は輝きを増し激しく明滅する。書物より虚空に顕れていた、揺らめく蜃気楼が『歪み』、大蛇の如く脈打ち暴れ始めた!
窓の外は、世界の一斉を遮断する「昏き闇」に覆われて、遠くの街明かりも眼前の街灯すら全く観えない。
侵蝕してくる闇の前に無情に響く、楓の、声ならぬ悲痛な絶叫。
「楓ちゃん!――神呪……きっとこれです!」
それは、表紙を捲り、扉に書かれてある一文。
昏き闇這い寄る中、竜輝は必死に指し示した。
「これをどうするの!」
尋ねる間にも、窓から滲む様に入り込んで部屋を喰らいはじめる。
標的を察知した昏き闇は、楓が掌に持つ石版目掛け、一斉に彼女ごと呑み込む!
「いやぁっ! りゅぅ、くぅっ!」
「楓ちゃん! ――放せぇっ!」
竜輝の拳が激しく輝いて闇を貫く。
一瞬怯んだ様に闇は霧散するも、すぐさま翻って襲い掛かってくる。
闇を見据えて竜輝が叫ぶ。
「……楓ちゃん、僕を信じて!」
「えっ? な、なにっ? これもしも……っ……!」
「何があってもどうなっても、すべてわからなくても――僕は必ずそばにいます! だから、心の中で一緒に詠み上げて下さい!」
口を塞がれ闇に捕らわれ身動きとれぬまま、楓は頷いて息を合わせ念じる。
「――詠み上げます! 『風は 竜巻となりて無を宿し 無より眞なる神威之力生ず』! 言の葉よ神呪を以て歴史と成れ!」
「あっ!」「あぁ…!」
二人同時に声を漏らす。溢れる目も眩むばかりの光。
渦巻く風から溢れ出る透明に輝く絶対的な権能に、昏き闇は弾き飛ばされる。
輝く虚空が二人を瞬く間に呑み込み喰らい尽くす。
「……起きて、竜輝」
――変わらぬ日常。朝、優しく微笑み越してくれる彼女の表情が、最後に浮かんだ想いの泡沫であった。
白銀に煌く旋風吹き荒れる中、遺されし書物より浮かび上がる一柱の女神。
「――間に合いましたか……。彼の地へ……刻を超えて征かれましたね……」
観る間に風は激しく渦巻いて巨大な竜巻と化し、彼女を……いや世界すべてをも呑み込み、虚無の白紙に還すかの如く吹き荒れていく!
「永き流転の旅の果て、真なる幸があらん事を!」
――絶対なる神威の奔流。幾度目かの終焉――そして――。
そこは、陽光煌き風吹く大地。
そよぐ風が軽やかな足音を運んでくる。
音の主は、静かに傍に腰かけて囁く。
「――きて。……ちょっと起きなさいってば、ヤチホコっ!」
乾いた音が耳で弾ける。
急速に現世へと意識は還ってゆく。
反射的に飛び起きた彼の視界を、優しくも力強い太陽の光が眩く塞ぐ。
光を背に、腰に手を当て仁王立ちする少女の影。
「かぇ……いや……。スセリ、ちゃん」 「やっと起きた! もうヤチ、今日は何の日か忘れていないよね?」
スセリは呆れたように頬を膨らませながらも、手にはすでに儀礼用の櫛が握られている。
そう。今日は『参殿の日』。
この意宇之國を護りし神威の御前、祈りを捧げる最も重要な儀式の日。
「……ごめんなさい、少しだけ、またあの夢を……」
竜輝、いやヤチホコは――「あの跳躍」から三月は経つが、依然として幾度となく繰り返し観ている。夢ではないはずの――。
「縁起でもない寝言を。ほら、背筋を伸ばして。髪を梳くわよ」
スセリが背後に回り、慣れた手つきでヤチホコの髪に櫛を通し始める。
ヤチホコは、座禅を組んで意識を集中させる。
梳くたびに光の粒子が極寒の粉雪の様に美しく厳かに煌き、観るからに清らかな気配に変貌していく。
甲斐甲斐しくも真寧な面持ちで髪を梳くスセリ。
梳き終えた直後の満足気な微笑に重なる面影。
瞬間、ヤチホコは胸を撃ち抜かれたかの様に息が詰まる。
(その微笑み方……。三月経ってもまだ慣れません……。でも、この煌く氣力の粉雪が……楓ちゃんじゃなく、スセリちゃんなのだと……儚さと美しさが、輝きを放ち、囁いています……)
想いが伝わったかのように、スセリの指先が微かに震える。
「……震えています、スセリちゃん?」
「どうしてかな? ボクにも分からない……。昨日の錬、頑張り過ぎたからかもね」
苦笑して応え、気を取り直してスセリは法衣を纏う。
そう、そんな筈は……未だに毎朝、そして事ある毎に、彼女の微笑に重なる泡沫の余情に胸を締め付けられる。
爽やかな朝の風が、新緑の楓を揺らして舞う。
風は、彼の頬を慰める様に優しく撫でて翔け抜けてゆく。
高床式の窓から吹き込む風は、山桜の甘い香りを運んでくる。
眼下には、この「意宇之國」をはじめ、神威と呼ばれし古き神々と人々が共存する、「奴國」の集落が見渡す限りに広がっている。
穏やかな朝。先ほど見た滅びの夢が嘘のように、世界は美しく輝いている。
「……急ぎましょう、ヤチ。神様がお待ちよ」 「はい。参りましょう」
整えられた髪に気が引き締まる。
これは、幾度と繰り返されし歴史の、「新たな創世」を詠わんとする、最後の黎明であった。




