十六杯目:戒めの首枷 執行のカルマ・ダチュラ
朝日のまぶしさに目を覚ますと、黒木の腕にすがるようにイダキが抱きついていた。
夢ではなかったのか。確かめるように女の頬をなでると、抱きつく力が強くなった。
腹の底から泥が布に滲むように、そわそわと落ち着かない悦びが沸いてくる。
シシケンを捨て、彼女は最終的に自分を選んだ。
いま強引に求めたってイダキは受け入れてくれるだろう。
確信に脳がジリジリと疼く。耳の奥では彼女の言葉がこだまする。
あなたがいるから安心できる、と。
こんな世でも自制できる貴方に導いて欲しいの、と。
あなたが、あなただから、あなただけが、あなたしか……
そうだ。これが正常なのだ。よかった。これまでがおかしかっただけだった。
自分は警官だ。
チンピラのシシケンとは違う。
務めだってこれまで全うしてきた。学もあり、武を学び、世に貢献をしてきた実績がある。
だからこそ、力の象徴である銃を携帯することを国から許されている。
『最初は強引な方法がいるだろ。悪党役は自分がやる』と、シシケンがなし崩しの形でリーダーのようになっていたが、
本来ならあいつは檻の中で朽ちていく人間だ。
やつだって、心の底ではそれがわかっているはずなのに、なぜあいつだけ……
澱のような不快感が舞うが、落ち沈むまで無心を保った。
警官の制服に着替える。枕の下から警棒と銃を取り出し身につける。
この服は、いつだって自分を自分足らしめる。
「ん、どこにいくのぉ」
目をこすりながらイダキが甘い声を出す。ベッドに戻りたくなる欲を抑え襟を正した。
「図書室の見回りをし、理科室の連中の進みをみてくる」
「わかったぁ、あとで合流するわ」
「ああ、ゆっくりで構わないよ」
まるで崩壊以前の朝のように仕事へ向かう。それは黒木にとっての安寧だ。
図書室に入った直後、すぐに違和感を覚えた。
空気が冷たく澄んでいる。話し声が聞こえる。喧嘩ではないが騒がしい。
(いったいどういう状況だ)
パーテーションを迂回して、視界が開ける。
いつも優遇している二つの班がいる左側のテーブルの反対、右奥の本棚が並ぶエリアに人が集まっていた。
「いいぞー、その本棚をこっちにもってきてくれ」
嗄れた声で大工の黄虎喜八が指示を出している。
背の高い本棚を、干岩という男を含んだ複数人が協力しながら運び、部屋の端に寄せている。
「おい、なにをしているんだ」
腰に携えていた警棒を手に取りながら、黒木は現場に近づいていく。
どうせ新人が余計なことをしたのだろうと決めつけ、新しく入った干岩を問い詰める。
「あ、すいませんお騒がせして。いや、大したことじゃないんですが、うちの女の子が加わって女性も増えたから、着替える場所が困るって話になって……違う教室もちょっと怖いでしょ、女性にとっては。だから黄虎さんとちょっと視線を遮る場所を作ろうって話になってですね」
「また勝手なことを」
反射で言い返すと、干岩が悪意のない困惑の表情を浮かべた。
「え、なにかまずかったですか。べつに禁止されていないってみんなに聞いてからやったんですが、ちなみにどの部分がまずいんでしょうか?」
「なにがって、それは」
ドがつくほど直球に聞かれ、戸惑った。どう考えてもないのだ、まずい部分が。
とはいえやり込められるのも、どうにも面白くはない。
キョロキョロと周囲を見渡し、部屋の奥の窓を見咎める。
「窓、窓を開けているようだが、なぜだ。鬼が入ってきたらどうするんだ。誰が責任を取る」
「ああ、ちょっと空気が悪かったので、いや、先日トラブルで窓が割れたじゃないですか、あれもそのままになってますが、なにか入ってくる様子もなかったので、試しに開けてみたんです。特に問題はなさそうでした。それでも万が一もあるので、オレか夜平さんで交代で見張っています」
示された方向を見ると、確かに窓際に肘をつき外を眺めている女がいた。
そばには銀靄の鬼のようなナニかが控え、つねに外を警戒しているようだった。
ね、と干岩が言った。
「勝手に動いてすいません。ご心配おかけしましたが安心してください。正直、あの外で会った鬼の一体二体なら、仕留めるのに数秒もかかりません。ああ、できるだけ騒ぎにならないようにします。ただ……もし大量にくるなら窓を閉めていても一緒かと思います」
少しエッジのある、ひび割れた低く安心を促すような声音で言い切られる。
自分の視線が泳いでいるのを実感する。
顔を隠した女が、飲料や食事をもって下位の班に声をかけている姿が見える。
これは、まずいのではないか。
左が二、右が八と人口の密度が右に傾いている。気のせいではない。
職業柄、物事を観察する癖がついている。
嫌な予感がする。なぜだろうか、言いようのない不安を感じた。
「それで、なにか……まずかったんですか? 言ってもらえれば改善します」
視線が集まる。覚えがあるぞこの雰囲気。職質をしていた頃によく浴びていた視線だ。
なんの用だ。変なイチャモンでもつけられるのではないか。
妙な動画で植え付けられた悪徳警官のフィルターを被せた低能共の視線だ。
己を高める努力すら怠ったお前らなどより、よほど正しく生きている警官に、くだらぬ偏見を浴びせるカス共め。
強権でねじ伏せるか、いや、なにをどう言ってやめさせるというのだ。
駄目だ。
いまここでみっともなく警棒を振り上げては、自分の権威を貶めるだけとなる。
黒木の頭の中に残る冷静な部分が、使えるはずの権力の行使を止めた。
(これは流石にシシケンへ報告するべき案件じゃないのか)
ジクジクと疼く心臓を抑え、黒木は声を絞り出す。
「わかった。だが窓はあまり開けておくな。万が一がある」
「わかりました。すいません心配をかけて。戻りますねまだまだやることがあるので」
「あ、ああ」
一体どういうことだ。
確かにシシケンのやり方は強引だったが、まだコイツラがきてたった数日だぞ。
それほどまでに、今までの恨みが募っていたというのか。
振り返り部屋をでる黒木の背中に、やけにやる気に満ちた人々の声が降り掛かった。
すぐにシシケンの元に行こうかとも考えたが、理科室の様子も気にかかった。
さすがにペリュトンの目があるのだから、状況自体は知っているはずだ。
効率も考えると、全てを確認してから報告に向かうほうが良い。
ごちゃごちゃと絡まる思考を解きながら、陰鬱極まりない理科室の扉をあける。
「あ、黒木さん! おつかれ様です。いや、待ってたんですよおれたち!」
入った途端、明るくハツラツとした声をかけられた。
誰かと思えば、普段優遇しているグループの男たちだった。
「何だ問題でもあったのか、いやまず……お前達作業はどうした」
いつもなら入った瞬間に嗚咽を漏らす異臭が漂うはずの部屋の空気が澄んでいる。
床も、テーブルも、作業している人員達ですら、明らかにいつもよりも清潔だ。
困惑のまま聞いた黒木に、優遇班の者たちは少し照れたように数枚の紙をわたしてくる。
「ちょっと、作業場の改善を行っててうまくいって、ああ作業自体はもう〝終わりました〟工程時間の半分が残ったので、清掃と今後の改善案をまとめたんです。作業効率の向上にも繋がりますので、ぜひ検討してもらえると嬉しいです」
終わった? なにが、作業が?
改善、どういうことだ。
視界の端、薬道とかいう憎たらしいほどの美貌の男が、満足そうに笑っている。
その顔を見た途端、ぐらぁと足元が揺らいだかのような恐怖に襲われた。
呼吸が浅くなる。脂汗が浮かぶ。
「そ……そうか、それは、よくやったな」
ひねり出す。
「ありがとうございます! ではいつも通り体育館への荷運びを牽引お願いしてもよろしいでしょうか」
「そう、だな」
吐き出された言葉は本当に己のものか、
ぐらぐらする頭のまま黒木は準備を始める者たちと体育館へと向かった。
一階の正面入口から右へ出て、渡り廊下の先に体育館がある。
バラした肉と、珠の入った袋を作業員たちに担がせ入口まで進む。
ペリュトンの指示であるため、運搬時ここまで出ても大丈夫だと言い聞かせてあるが、一部の者たちはそれでも恐ろしいらしく顔を青ざめさせている。
薬道という男は、頭がオカシク正常な判断もできないのか、片手でデカい袋を担ぎへらへらと酒を飲んでいた。
「よし、お前達いつも通りに作業を行うぞ。珠の入った袋はわたしが、肉の袋はそれぞれ裂け目の周辺にばらまき準備しろ」
広々とした体育館、奥のステージの上に赤黒い裂け目がある。
手前のコートには、幾多の紫色の血のシミが広がり、異臭を放っていた。
黒木の指示に従い、骨と肉とに仕分けられた餌がばらまかれる。
いつみても吐き気を催す光景だが、気にしてもいられない。
黒木は珠の入った袋を持って、体育館のステージ上にあがった。
「よし、ここからは危険だ。お前達は外にでろ」
振り返り作業員たちを追い出す。
出ていったのを確認し、黒木は袋に入った珠を裂け目にざらざらと流し込んだ。
どくん どくん
裂け目が脈動した。すぐに黒木も裂け目から離れ出入り口に向かう。
外に出る直前に振り返る。
裂け目から、ぞくぞくと紫色の鬼と影のような鳥が出てくるのを確認した。
(気味が悪い。出てきた直後は腹が減ってるんだったか、あとはペリュトンが指示を出すだろう)
裂け目から垂れ流される薄気味悪い赤い霧が濃度を増すのを見ながら、黒木は体育館の扉をしめた。
「黒木さん、仕事なくなってしまいましたが、どうしましょう」
やたらとやる気を出してくる男共に、黒木は苦々しい気持ちで指示を出した。
「いまは捌く死体がない。掃除でもして待機していろ。追って指示は出す」
「わかりました!」
なぜだ。なぜだ。なぜだ。
特段悪い状況ではないはずなのに。
早足で歩く黒木の心臓は、焦燥で早鐘を鳴らしている。
無意識で向かった先は、イダキの部屋だった。
ノックを鳴らし、身なりを整え終わった彼女が黒木を迎えた。
縋り付くように部屋に入るなり彼女を抱きしめる。
「なぁに、どうしたのよ」
甘いその声に、黒木はぼそぼそと今日あった出来事を話した。
「そんなことがあったのね……もしかしたら」
考え込むように溜めたあと、イダキはペリュトンにすら聞こえないような小声で、黒木に耳元に囁いてきた。
「そろそろ限界かもしれないわ、シシケンさんを頂点におくの」
ぞわぞわと耳をくすぐる声。
「みんな求めているのかもしれないわ〝正しく〟導いてくれる……リーダーを」
嗚呼、イダキの濾過で、心の澱は沈み澄んでいく。
そうだ。正しさとは、いずれは誰もが認めるものだ。
シシケンに今日の報告をしたが、やつとペリュトンは事の次第をあまり重要だと捉えていないようだった。
やはりろくに大学も出ていない者に思慮を任せる事自体が愚かだったのだろうか。
そう思ったが、言い分を聞けば一応考えがあるらしいことがわかった。
ペリュトンの言うには、もう間もなく時期が来るとのこと。
裂け目から生まれる化け物と同じように、ペリュトンの相棒とやらも受肉間際は腹が減っているそうだ。
だから、その自分達に唯々諾々と従わないやつらは、一度全てリセットしてしまえばいい。そういう話だった。
確かに、この辺りでの安全を確保できるのであれば、行動範囲も広がる。
わざわざ多くの反抗的な人間を飼っておく必要はない。
また、新しく話の通じる人間を保護してやればいいだけだ。
世界が荒れている中で、選民は致し方ないことだ。
だから、最低限選ぶ側の人間は、国から選ばれるような者が全うするべきだろう。
シシケンは言った。
「新しい死体をすぐに集めて、さっさと進めるべきだぜ」
こちらの力を増強しての治安維持、納得はできた。
すぐに学校を出発することにした。
イダキの力で、周辺の空気を捻じ曲げ姿を隠す。
ペリュトンこそがヌシなのでそのまま出たって良いのだが、
校内から見られている可能性もあるため整合性のある行動は必要だった。
学校からでてすぐの大通りに、あいかわらず人影はない。
西部映画であれば回転草でも転がっていそうな閑散とした景色だ。
「黒木、今回は少し急いだ方が良さそうだ。手分けして死骸を集めるぞ、ただ場所は危険のないようにいつものスーパーに行ってくれ。イダキは……今回は俺の方に来い」
「わかったわ」
目配せのようにイダキが黒木を見る。
まるで安心してね、と言わんばかりの笑顔だった。
シシケンに警戒されている。
いや違うな。
黒木はほくそ笑みそうな自分を抑えた。やつは焦っているのだ。
ペリュトンの目によって、自分とイダキが心を通わせたことを知って、点数稼ぎでもしようとしているのだ。
無駄なことを。出発前だってイダキは変わらず黒木に愛を囁いていた。
もうヤツの入り込む隙間はない。
黒木は、優越感を胸に慣れた道を通りスーパーへと向かった。
いつもと同じ道。
いつもと同じ場所。
いつもと同じ敵。
ただ、いつもと違うことが一つだけ起こった。
【ぐぞ、あのなんだったんだあの〝子鬼〟……おい表人ごときが前を阻むんじゃあない】
スーパーの冷蔵室、そこに普段であればいてはいけない奴がいた。
小柄な狼男。
傷だらけでふらふらとしたそいつが、牙を剥いて黒木の前に立っている。
普段出会うやつよりも明らかに強そうだ。威圧感もある。
【ぐ、ぐぁッ、そこをどけ食い殺すぞ】
歯をむいてよだれを垂らすそいつは、きっと普段なら恐ろしいと思っただろう。
しかしよく見れば、そいつは血だらけでフラフラと足元も頼りなかった。
気がついてしまえば、獣の姿は黒木の目には脅威として映らなくなった。
警棒と銃を手にする。
乾いた唇を舐めて一歩近づくと、狼男はびくりと背筋を震わせたあと唸りを上げた。
【そこを退けえええええ】
お前、今、怯えたな。
恐れはなくなった。飛びかかってくる狼男の速度には精彩さがなかった。
銃口を定め、引き金を絞る。
ただの牽制のつもりだったが、幸運か怪我のせいか飛び出した弾丸が狼男の片目を貫く。
【ぎゃあ、くそがああああ】
仰け反り足を止めた狼男、犯罪者を投げ捕らえるのと同じように考えるまでもなく体が動いた。
走り、距離をつめ、警棒を振り上げる。
左手で狼男の首を掴む。
左手からキラキラと輝く光の鎖が伸び、その首をつないだ。
光輪の枷。
世界が崩壊していつの間にか身についていた力で、狼男の行動を制限する。
逮捕だ。これが法の縛り。
こうなれば後はこちらのものだ。
殴打。
全力で鼻面を殴りつけ、目を潰し、牙を折る。
口内に警棒をツッコミかき回し、泣き叫ぶそいつを調教する。
キャンキャンと吠えるだけの獣め。
いたぶっているうちに、やがて動かなくなった。
大の字で死んでいる狼男をみて、黒木は思う。
(二廻のバケモノを殺した。わたしが、わたしがやった。珠はどうなるのだ)
ペリュトンが言ってた。体の状態が整わないと、取り込めば破裂して死ぬぞ、と。
黒木はまだ整っていないからとずっと待たされていた。
妙じゃないか。
今、ここで、この手で殺したのだぞ。
あのシシケンは二廻になって、なぜこちらが成れない。自分がシシケンの下のはずがないではないか。
道理が、通らない。
気がつけば、黒木はベルトに通していたサバイバルナイフを、鞘から引き抜いていた。
なにをためらう必要がある?
振り上げた刃を獣の心臓に下ろす。
肉をえぐり、心臓を抜き出し、その奥に輝く珠を引きずり出す。
脳裏にリフレインする、イダキの言葉。
あなたが、あなたこそが、あなただけ――
「そうだなイダキぃ、これはわたしのもの、わたしこそ導くべき人間」
滴る紫色の血液ごと、黒木は珠を飲み込んだ。
体を巡る力の奔流。
手に握った拳銃へ力が流れ込む。
シリンダーをオープンしてみれば、空の弾倉へ弾丸の代わりに光が埋まっているようだった。
人が歩く方法をなんとなく理解できるように、曖昧ながらもソレの使い方が理解できた。
「ひひ、ふはは、あーーーははははッ」
なんという、恍惚の充実。これが正義か。
探索はすぐに終わり学校へ戻った。
合流したシシケンは黒木になにも言ってこなかった。
気づいているのか、いないのか。
その夜、大きな変化があった。
何の前触れもなく霧の濃度があがったのだ。
【きたぜきたぜ。ついに三廻の域に到達したぜええええええええ】
ペリュトンが狂乱の嗤い声をあげる。
死体の珠も裂け目に入れていないというのに……
ああ、もしかすると、自分が二廻に至ったことが関係しているのではないか。
だからシシケンたちも、表立って文句を言ってはこなかったのかもしれない。
まあどちらでも良いことだ。黒木がやらねばならないことは、決まっている。




